2020年11月30日月曜日

第21回現代の創造展について

 また半年ぶりのブログとなってしまいました。新型コロナでいつものように過ごす年ではなくなり、いろいろなことがさまざまに過ぎていった。首記の展覧会もどうなるかと思っていたが、どうにか開催され、会期もあと数日となった。

夏から始動した我々展示係も当初の計画に対し さほど厳しい批判もなく何とか好評のお言葉を得ることができた。私個人は前例をかなり無視した展開を目論んでいたので、内心かなりほっとしている。というより正直この10日ほどは放心状態とでもいえるほどである。

この展覧会は、日本画、洋画、版画、彫刻、工芸、書、及びコンテンポラリーの7部門を部屋別に展示したりしないで ジャンルをシャッフルしたように 昨年から始めたが、2年目は各作品をどのように部屋別にしていくかが問われた。




部屋は大きく通常の展示室A,Bと講堂、市民ギャラリーとロビーの5空間で なんとかテーマで括れないかと挑んだのですが、書にはうまく向き合えなかったなというのが実感です。

それは臨書という概念にたいして どう受け取ればよいのかさっぱりわからなかったから、、、

展示された臨書の作品は格調高く凛としているのですが どうしてか訴えてくるものがもわーとして受け取れない感じなのです。

「作家の心が伝わらない。」   それでは絵画で育った私には「?!」となってしまうのです。ネットでにわか仕込みで「臨書」を調べると かなり修行的なことが綴られている。昔若いころデッサンに苦労していたころ感じた堂々巡りの論理に似ている。わたしたち絵を学んだ者たちはそこから「自分の表現」という概念を展開したような気がするが、書の先生方はどこに向かわれているのか・・・・首をひねるばかりである。

追記;後日 南信州新聞の記事の「書というやっかいな芸術云々」という見出しがついていたが ちょっと刺激的だなと思っていたら やはり抗議らしきお電話をいただいたと、記者さんから聞いた。

東洋の伝統的芸術思想に神の領域まで修行を高めるというような崇高な思いがあると思う。この考え方は己を空しくして何かを悟ろうとする禅の思想にも通じると思うが、西洋近代の「人間の自我」を肯定して出発している近代文化思想とは相容れないだろう。だから上記の展覧会では  ”やっかい ”という言葉になるのも強ち変な表現ではない。ちょっと前の日本画にもあった問題だ。やはりそこは作家たちは書家だけの論理にこもらないで、この展覧会で議論してほしい。と願うのだが いまは議論が嫌いな人たちばかりで問題は深まらない。