2009年10月25日日曜日

NakamuraBrawn-4


しばらく前に話題になった『送り人』と言う映画をテレビで見た。映画の中で肝になっていた河原で拾う石の話に興味を覚えた。太古の時代、 言葉もさして豊富ではなかっただろう そんな時代自分の気持ちを河原の石に託して伝えるべき人に送る。とてもアートな表現で、本質的だ。
振り返って自分の絵を見ると愕然とした。表現が軽いほうに流れている。つい ちょっとしたキレイサとかおもしろさに気持ちが持っていかれているんだ。なぜ土を使っているのかもう一度立ち位置に立つべきだ。あの話のように石を相手に渡すというもっと深いところでの表現でなくてはいけないんだ。土は絵の具に比べ描写性にも 発色の面にも優れてはいない。しかし、だからこそ描写でも色面構成でもないもう一つ深いところで人の心の何かを表現できるんじゃあないかなと私は考えている。

2009年10月24日土曜日

中村正義と山本弘


東京展の発足のころの画家中村正義について興味があっていろいろを見ている。時々いく飲み屋さんにもたしかディフォルメされた原色の人物画がかけてあったと思う。すごく繊細な風景画から強烈な色彩のお面のような人物画に変わっていく。見続けていられないような毒みがある。ふと、山本弘という画家を思い出した。10年前東京で初めて開催した私の個展に来られたm.m.polo氏(高校の先輩にあたる)からこの画家の存在を知った。飯田出身で地元で活動した(活動という言葉が正しいかわからないが)画家である。中村正義とほぼ同世代かやや若いくらいのいわゆる無頼派画家である。酒と自殺未遂の暮らしのようであった。後に今村由男氏(版画家)と話す機会があり山本画家の話になって『おんぶしたら背中でおしっこされたよ』ときいた。逸話満載の人だったようだ。そんな荒れた暮らしなのに絵が意外とサワヤカ。爽やかという言葉は当たってないかもしれない。ただ毒味が少なく救われるのだ。中村正義の毒みは人の心に浸み込まないところがあるような気がする。反権威の作家の微妙な部分だ。

さて m.m.polo氏が頑張って東京で展覧会を企画しているが地元ではなかなか山本の絵を見る機会は少ない。飯田市美術博物館に大作の所蔵がいくつかあるそうなのでぜひ回顧展をやってもらいたいものだ。m.m.poloさん 手元に山本弘さんの図がないので勝手にリンク張らせてもらいました。すみません。

2009年10月17日土曜日

nakamurabrawn-3


二三日前まで、椋鳩十を鳩椋十と言い間違えたりしていた小五の娘が、夕食のとき“心は感動でできるんだよ”と言った。今日遠足で椋鳩十記念館に行って聞いてきたらしい。むーん思わず唸ってしまった。
  何年も前 散策していてあの赤土を見つけた。少し湿っていたその土はなんとも不思議に赤かった。赤松の幹にも似た赤さだった。土の質感のある画面を模索していたわたしにはこの土を試さずに入られなかった。以来私のメイン素材となったのだ。
その後展覧会を開く度に『中村壁の色ですね』と言われたが、 中村壁は“?”のままだった。そして友人の村澤氏からその壁について調べようの申し出があったのだ。思えばあの散策のときの感動がNakamuraBrawnにつながっていたんだ。・・・・
おいしい!とことさら大きな声で夕ご飯を食べ始めた娘は、心を創るというより体をつくる感じだな、と私は思った。

2009年10月7日水曜日

1975年(二つの原点)


るたん選抜展が今年も開かれるようだ。画廊からの案内状に美術評論家の赤津侃氏の“団体展は「何処から来て何処へ行くのか」”という興味深い文があった。

【75年第一回東京展は新装開館した都美館で日展と隣り合わせて開催された。反権威、反日展、自由出品制、無審査を旗印に、中村正義や針生一郎らを中心とする東京展市民会議が立ち上げた。】

ああなんという時代だったんだろう。私はこの文を読んであの頃のことを思い出していた。3回の芸大受験に失敗し就職をきめた年だった。デッサン重視の受験になんとも出口を見出せなかった。なんかもっと大事な方向があるはずだと頑なに思っていたと思う。芸大の権威と現実に疑問を膨らましていた。かといってどんな絵を描いていいのかもわからなかった。友人と行ったフジテレビギャラリー(曙橋あたりだったか)で、カレルアペルとウェレムデクーニンのフィルムを見てスーっとした気持ちになったのを覚えている。その東京展を見ていれば何か変わっていたかもしれない。

一昨年豊橋市にある“新しい日本画をめざす”星野真吾賞展に出品したが、審査委員長は針生一郎氏であった。その総評で『中村正義氏や星野真吾氏の新しい日本画に対する取り組みに対し、出品作品は総じて問題意識が低い』とのことであった。どう低いのか私には理解できなかったが赤津氏の文に触れてやっとその意味がわかった気がした。それは、私がずーっと抱いている権威に対する不信感や、自分の信じる絵を描くという方向を押さえ込んでしまわなくていいということなのだ。

2009年10月4日日曜日

NAKAMURABRAWN-2


11月23日(月)から28(土)まで東京銀座の画廊るたんで個展を開催する。この夏の無気力精神ではいったいどうなるんだろうと心配していたが、不思議なもので涼しくなると少しずつ気力が出てきて何とかやれそうになってきた。

DMもでき画廊の中島さんと打ち合わせる中でサブタイトルのnakamurabrawnについてもう少し説明をしなくてはいけないのかなと思うに至った。

<NAKAMURABRAWN 林正彦展によせて>  かつて、幻の壁『中村壁』を左官、新聞記者と共に研究しているころ飯田の旧家のお茶室を訪ねた。その茶室は中村壁で 夏の夕方の斜めの光がオレンジ色に乱反射して 室内はボアーッとした時間のない不思議な空間だった。・・・中世美術の極みというのか幽玄のような感覚を覚えた。この中村壁の土にはなんとも不思議な魅力がある。

しかし私は 自己研鑽による中世美術とは異なる方向に この土と共に進もうと思う。なぜなら自己を虚しくしてその技術の頂を目指す中世の美学には 現代に生きる私たちとは相容れないものがあると思うから。私たちは自己を虚しくするのではなく存在するということを確かに感じなくてはいけない。・・・
そんな思いで この中村壁の土を 敢てNAKAMURABRAWNと呼び この土の特性である温かみが自己解放の表現につながらないかと挑戦している。