アリタリア航空の機内に乗り込むとやっと出発の実感が沸いてきた。この一年いろいろな人に支えられてこの旅に家族3人が出られるのだ。なんと言っても 務め人にとって10日連続の有給休暇を取るのはやさしい事ではない。一年かけて上司が調整してくれたり、周りのひとが仕事を引き受けてくれた。そして行ってらっしゃいと言ってくれた。妻も同じだったようだ。娘の場合は担任が骨をおってくれたが、事前勉強はしっかりやらされたらしく 『もう勉強はしない』と断言しての旅立ちだ。
9900km 13時間は長い、機内でおいしいワインを飲んだくれて過ごそうと思っていたが 酔いがさめてもまだ半分も行っていなかった。・・・
アカデミア時代の旧友ヴィートがローマ空港まで来てくれていて懐かしい再会を果たした。予想に反して太っていた。15年ぶりだ。着ている服が赤かったらほとんどサンタクロースと言っていい風貌になっていた。でかい手で重いトランクを車まで運び、彼は私たちをフォリーニョの家につれて行った。
彼とは歳が同じで 当時あまりイタリア語の話せない外国人学生の私をよくいろいろな催しに連れ出してくれたものだった。いっしょに二人展もやったし、わたしの抽象画への扉を開いてくれたのも、彼だったと思う。
夜の10時をまわっていたが、家では妻のルチーアがクリスマス料理のトルテリーニインブロードを作って待っててくれた。彼女もあのころからの友人だ。 イタリアンママになっていた。子供が3人、下の子は双子で14歳、うちの子より1つ上だ。彼らはそのうちパソコンの翻訳サイトでコミニュケーションを取り始めた。なんか微笑ましく嬉しかった。いろんな話をした。私たちはいままであまり手紙を書かなかった。だから、話すことはいっぱいあった。わたしの錆びかかったイタリア語も滑らかになった。なんて感動的な夜だったことか!
気がつけば 時計はもう2時だった。
*彼の部屋に掛けてあった当時のイラスト;左がVito、中央が私、奥の穴の中にLucia、’80にMoreno(私の右隣)が描いたものだ。
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