2014年11月3日月曜日

素材としての土の色

飯田市の創造館で今展示されているオブジェは先日友人の手塚氏が指導した赤土を使って描くワークショップの作品群だ。なかなかの存在感を放っていて、嬉しくなってしまう。
失礼だが隣のブロックに展示されているアカデミックな絵たちに比べとても魅力的である。たぶん素材の土の力が大きいと私は考えている。
(絵の具と土について考えたとき、)所謂絵の具というものは色をだすために極限まで抽象化されている。だから当然平板に使ったその色には何も性格は生まれない。描こうとする作者の意思に従い画面にその役割を忠実に与えられていく。ある時は澄んだ秋空として、またある時は燃える炎の赤として。たとえて言うなら舞台の名優だ。
しかしここで登場している素材としての土は全く絵の具とは正反対の代物で、土でしかない。秋空も表現できなければ、火の激しさも表現できない。表現とはほど遠い舞台でいえば大根役者だ。
しかし今という時代は表現物で溢れている時代だ。テレビをみればコンピューターグラフィックスのコマーシャルで本当の出来事なのか偽なのか区別がつかない。・・・もう名優だらけなのだ。そうなると私たちは、どう思うんだろうか。・・・気持ちよく騙されているうちはいいが、悪意のある嘘に騙されるようになるともう魅力も何もない。演技力はもういいよ!。本当のとこ どうなの?となる。
土には演技力はない 大根役者だ。でも存在そのものが土としての真実なのだ。私は 素材としての土を使うとき こんなことを考えてしまう。”存在そのものが真実。私たちそのものの存在感が今、能力とかいう概念(20世紀的)で脅かされている。しかし希薄なんかでは全くなくて存在している事そのものが偉大な真実なんだと。”
そんな安心感のなかで自分の手の素朴な動き、とか 画面の出来事から感じ取る素朴な ナントカ見たい!と言った感覚を発展させたりして喜ぶのが、表現というものの原点と私は考えるのです。
そんなシンプルな構造がその作品たちの魅力なのだ。



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