ニューヨークのコンテンポラリー文化にあこがれを持ち、その残り香のようなものをかすかに追い求めてきたように 自分を思う。前のブログで一柳彗や草間彌生について考えているうちにちょっと自分の立ち位置を考えてみたく思った。
田舎育ちの若者であった当時の私には サイケデリックな文化も少し年上の人たちのものだったし、エキセントリックな演劇やらハプニングもやたら怪しくて 遠巻きに眺めているに過ぎなかった。観念アートも何やら暗く難しくて中には入っていっけなかった。ただ、ジャスパージョーンズやラウシェンバーグの絵にはなぜかとても惹かれていた。また、ジャズは好きで72~3年ころはよく渋谷のジニアスというジャズ喫茶には通っていた。
芸大浪人が重くのしかかる頃になると 友人と「軽みの会」とか言いながら やたらと社会権威に反抗して粋がってもいた。ささやかなカウンターカルチャーの体現だったかもしれない。精神的には 私も一端のアンダーグラウンダーになっていたのかも。赤瀬川氏が活躍していたころか。
70年代後半はやたらと街がきれいになっていった。横浜駅の地下街ができていって 私自身はとても場違いな気分にさせられた。広場にはファッショナブルな女性の彫刻が飾られた。このころ一柳氏の言うコンテンポラリー文化のパトロンが登場していったのだろう。
このアートの商業化の流れは コンテンポラリーのポップな面が大きくクローズアップされた。ポスターがアートとなり グラフィティアートが偉大になっていった。ファッションもアートとなった。
私がイタリアから帰ったころ 日本のテレビでは アンディーウォーホルが「おいしい生活」を高らかに宣言していた。
たぶん、80年半ばころが日本でコンテンポラリー文化の花が咲いていたころだっただろう。バブルの頃とも重なっていた。
ここで 私の疑問は その文化がポップなところだけ調子に乗っていて、もう一方の反権威で 自由で 知的なアートが奇形していったことだ。
ポップな表面的な綺麗さ カッコよさ 可愛さ 軽さがエネルギーを持って行ったけど 取り残されたもうちょっと本質的な自由な生き方を志向するアートはどうなってしまったのだろう。私には無視されたか 存在さえ気づかれなかったように思う。
コンテンポラリーの手法は様々な展覧会や個展などでも見るが 単なる個人の感性の表現に留まってしまって かつての大いなる野望すなわち自由な生き方を貫くのだという主張は薄められ ないに等しい。
私が 赤土を使って描く絵は 単なる変種の洋画では 決してないのだが、そこの主張はまだまだ届かないのだろうか。
なぜだろう。
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