2020年12月19日土曜日

第21回現代の創造展が盛況のうちに終了

コロナ禍で なかなか準備や打ち合わせがままならぬ中 どうにか先月開催にたどり着くことができた21回展覧会でしたが 以外にも多くの方々にご来場いただき大変盛況のうちに終了することができました。事務局の調査によると3000人を超える来館者数で、過去4番目の多さとのことでした。来館者の方々、関係者方々に御礼申し上げる次第です。

主な要因は①コロナ禍で多くの展覧会が中止となり、作家側も鑑賞者もともに美術に触れたいという思いが満たされないなかで 近場で しかも比較的不安が少ない展覧会であったためではなかったか、それに②個々の作品の充実に加え展示の工夫もあったのではないかというアンケート結果があったようで、嬉しい結果でした。特に展示係(松井利明、小池誠、私)にとりましては一歩踏み込んだ展示であっただけに嬉しいご意見でした。

さて、その展示については 前回に引き続き日本画とか洋画などのジャンルの壁を取り外した新しい展示の形でした。そのめざす意味はアートの神髄について問いかける斬新な視点を醸し出すものではないだろうか・・・と。

この「現代の創造展」は 飯田下伊那地区に関わりあいを持ち かつ現代を生きる作家が どう生き何を言おうとしているのか を表現しているかの発表の場であるはずだから ジャンルという形を外したところではより「そのもの」が見えてくるはずだ。と考えるのです。「そのもの」がだれかに何かインスピレーションとして届いたとしたらそれはズバリ飯田のアートなのではないでしょうか。

私たち展示係は その作品たちをテーマごとに括ることで何かが見えてこないか考えました。風景、人物、抽象、からさらに踏み込み分解すると 風景から伝統的解釈、もう少し主観的なもの、逆によりリアルな風景、人物は、女性的なもの、家族的なもの、旅する人たちなど、抽象画は内面の表現、内面より少し画面的美を追求したもの 風景につながるものなど・・ こんな風にさまざまな作家のまなざしを考えて展示の大図を描きました。

苦労はしましたが 結果 「とても見やすかった。」「普段見過ごしてしまうジャンルをしっかり見ることができた。」などといっていただきました。果たして当初目論んでいたアートの「そのもの」に触れられたのかはまだよく分かりませんが、価値観の多様化のほどはわかっていただけたかもしれません。アンケートの中には「地元でこれだけ多種多様な活動をしているかと思うと勇気づけられた。」というお声が複数あったのには それなりの確かさを私は実感しています。

かつては 1つしかない正解を目指し切磋琢磨するのが芸術という考えがあったかもしれません。しかしいまは “1“以外はすべて不正解ということではなく 正解はいろいろと在るしそれぞれ正解を目指している姿こそが意味ある解なのではないでしょうか。という方向に目を見開いていかなくてはなりません。

それを考えればつい言いたくなる「あれはだめだ!」なんていう言葉には「?」を持つべきでしょう。それより「ああこの視点は新鮮だ!」と。


2020年12月4日金曜日

21th 現代の創造展について(書)

 あと土曜日と日曜日の2日になった現代の創造展、書について私の意見をここまで発信してきたがこの展覧会の構造的な問題に踏み込まないとなかなかすっきりした指摘にはならないと思う。この地域には多分2~300人くらいの書道愛好家がいるだろう。そして半分ぐらいの人が何らかの教室に所属して研鑽に励んでいるのだと思う。お教室は大小数十あって、この展覧会に興味のある先生の教室は10個ぐらいあるのかな。(極めてエグイ言い方だけど)きっとそのグループ間はあまり仲は良くなく この展覧会に出品する作家を選出するにあたって話し合いは行われない、したがって慣習でグループ別に 「あなたのとこは3人、私のとこは5人・・」てな具合に決めて「和」しているのだろう。それからこのグループ(=お教室)での序列の上位者を年ごとに多少入れ替えて出品している。その結果 書の修行を積んでいるが師の教えを出て自分の作品にしている作家はいなくなってしまう。ただうまいだけで 今一つ何かが伝わらないのだ。

組織の悪癖と言わざるを得ない。

下の写真は現代の創造展の書の展示と障害者施設の書の展示です。


ひとつの改革はあるべきなのに組織構造が何層にもフィルターになって言いたいことが伝わらない!

まるでPCR検査が進まなかった医療の構造にも似てはしない?

責任回避の多重構造。

2020年12月2日水曜日

書というジャンルを素人が考える

前のページから地元展覧会(現代の創造展)のなかのジャンル”書”について考えている。私は今年展示係としてジャンルを超えた展示を目指していました。具体的には日本画、洋画、版画、工芸、彫刻、書、コンテンポラリーの7つのジャンルの壁を取り払い 大きなテーマ(①立体具象、②立体抽象系、③平面で家族的人間的なもの、④平面で内面的表現なもの、抽象画的なもの、⑤風景、⑥リアル表現のもの)で括る企画としたのです。そこでうまく読み解けなかったのは書の分野でした。書の中でも作品性が際立つものはこころに入ってくるのですが(写真は素人の私が今現在個人的に惹かれた作品です。)多くは品あって凛としていて素敵だけど、スーッとながれて心にとどまらない。前のページでも触れたけど、東洋文化の「己を空しくして修業し、悟りに至れ」という心が自己表現を否定していて 「この人は何が言いたいの?」という問いには答えてくれない。人間業を超越した書を目指す修行僧のように顔が虚無僧の傘に隠れて見えないのです。一方私たち所謂西洋絵画の概念でスタートした者は人間のしかも自分というものがこう感じこう表現しました。と考えるから今の自分の、例えば「痛み」が表されるのです。書の人は「今の痛み」は乗り越えるべきものなので決して表すべきものではありません。「痛み」は西洋では美に繋がるに対し、東洋では未熟で醜悪となりうる。

しかしここまでの論理は近代までのお話で、私が挑戦した今回の展示でヒントにした新しい考え方でその2つの概念は乗り越えられると思っていました。それはコンテンポラリーの考え方なのですが、西洋の自我を中心に据えた考え方は、最後はエゴの戦いの場となり疲れ切ってしまう。(例えばかつてビートルズがインドの思想に惹かれたように。)だから東洋の「自然に調和して立つ自我」のようなやさしい人間としての自我を目指しその心に新しい美があると考えるのです。この考えは書の世界にもきっと共有できると思っていました。

しかし今現在当展覧会の多くの書作家たちは自分たちの書道の世界から出ることなく、慣習にとらわれ なかなか私たちとさえ向き合ってもらえてないように思ってしまう。

ぎすぎすした自己主張の社会に なにか涼やかさを与えてくれる可能性のあるジャンルだと思うので 今一歩オープンな展開を期待したい。せつに思います!