2013年6月7日金曜日

ギャラリートーク後の考察

前回に引続きもう少しギャラリートークを考えて見たい。
『これは何!? どうしてこうなるの?』という驚きが作品になくては人は作者の声を聞きたいとは思わない。いったいどんな人がどんな考えを持って制作しているか知りたい。・・・これがギャリートークの意味だろう。
さて、なかなかこんな作品には出会えないが この展覧会(アートウエーブ50人展)にはあったと思う。
しかし応える側からすれば いざ自作について語ろうとしてもなかなか言葉にならないし 肝心なところは言葉にしたくない、とか理性的に解析したくないとか感じている作家がいるだろう。作品が不思議なほど作家は説明を拒む傾向がある。 かなりファジーなところでモノを作ろうとしているから無理からぬ。
私なども トーク中に自作の中にある麻布の形象について質問を受けて戸惑ってしまった。『自分の不確かな存在感』と応えたが ほんとにそうなのかも今もってわからない。昔どこかの本で見たコプト教の古文書のようなイメージで描き始めたけれど それがまさにコプトのパピルスとして伝わることなど私は望んでいるわけではない。もし望めば現代の技法は写真でもコピーでも使えばいいのだから。
未分化なボーっとした方向性にこそアートの本質的魅力があると思う。そこが解析できた時点でそのアートはアートの死かもしれない。だから作家たちは言葉嫌いなのか それとも意味不明の言葉を使いたがるのか・・・
ありふれた感傷や既存の思想はことばにはなじむがアートの興味ではない。
ギャラリートークの限界のようなものも感じつつ   次回へ。

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