音痴はないというタイトルに惹かれて先日図書館で本を借りてきたが思いの外いい本でだった。僕は著者のように中学時代音楽の授業が地獄であった。一人で歌うと音程が取れないのだ。そのくせ合奏とかみんなと一緒に騒ぐのは嫌いじゃなかったので、ブラスバンドに入ってしまっていた。
若気の至りで今思い出しても冷や汗ものだが、そのブラスバンド員が音楽の時一人で歌うと それはそれは何とも情けない歌であった。だから今でもカラオケは行かない。トラウマだ。
さて、この本が掘り下げている一つは、音程(西洋音楽の)の概念をまず外して 単純に“音”だけをみんなで鳴らしてみる。それを大勢で、交互に鳴らしてみる。すると リズムのようなものが出てきてだんだん楽しくなり 高揚してくる。・・・それって、音楽の楽しみなんじゃないの?!
私もそれはよく知っている。だって、ブラパンにいたんだから。
ここで、大事なのは音楽は楽しむもので、音楽は勉強するものではないところだ。ところが一昔前の学校は西洋式の音楽が真の音楽であって、身につけるべきもの、習うもので、なんとなく歌えてしまう炭坑節は音楽の範疇ではなかったのだ。
この考えはいま、徐々に改まりつつあるが、ひとびとの底辺では割と執拗に生きているように思われる。例えを美術に変えてみよう。上手く描くことが絵の最大の価値であると多くの人が考えていて 展覧会で私が描くような絵は「わからん!」とことも無く言い 見ようともしていただけない。
音程を上手く操って歌う歌が音楽のすべてだ、と言っているのと同じだ。ジャズやパンクは認めない。 絵も音楽も勉強して、修行して行くもんだよ。と考えている。先生とよき生徒のみが美術や音楽の世界に居ることができると・・。
でも、基本はすべての人が心を喜ばせるもの、心を遊ばせるもの。その点が重要なことなのにそこへの着目がない。考えようとはしない。
一部のエリートだけが、音楽や美術を楽しむものではない。心の中に自由を羽ばたかすのはすべての人ができることなのだ。音痴といって音楽の外にいる必要はないのだ。
私は現代の創造展でもそこを感じて貰いたいと思っている。
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