雪のため 今週はいささか混乱の週であった。
ギャラリー暁の搬入を18日月曜日朝に予定して出かけたのだが、バスが運休!諏訪からアズサに乗ろうと動き出したが、中央線も不通となってしまった。展示用の作品を抱えて途方に暮れた朝だった。
足掻いた末に名古屋から新幹線に乗ることにした。どうにか画廊に午後たどり着いたが全く高くついてしまった。
当然その日は帰れず、翌日の帰郷を考えたが、火曜日もバスはなかなか運休が解除されなかった。
前置きが長くなったが、そんなわけで、火曜日はゆっくりボッティチェッリ展の鑑賞と あいなったのだ。
1400年代後半のフィレンツェはまさに人類美術の奇跡の時代だ。
生きることに必死な(生き死にが隣り合わせだった)時代が徐々に和らぎ、美しいもの 人間が考えられること そしておいしいことに興味を示せるようになったのだ。宗教の厳しい教義から解き放たれようとしていたのだ。
ボッティチェリはその時代の表現者の代表格。
彼の聖母子像は 神に対する敬虔な姿勢と人間的な美意識が本当にバランスよく同居していると思う。たとえ「ビーナス誕生」のようにキリスト教には異教徒の作品でも形而下の世界ではないすがすがしい精神性がある。
1500年代以降になるとイタリア美術の聖母子像は 単に〝きれいなお母さんと美しい子供″の絵になってしまい、神々しさはあまり感じられなくなっている。・・・
西洋文化に影響を受けた今の時代は その神々しさを敬う心とか、神に対する畏怖の心とか そういった ある意味 不思議な豊かさ感がわからなくなっているのではないだろうか?
ボッティチェリは 中世の世界から形而下の世界へ来た時代の表現者。----いま私たちは物質世界の洪水の中にいて 神を敬うような豊かな心を持つ世界に (ボッティチェリとは真逆の方向へ)帰れなくなっているような気がしてしまう。
心の乗るバスは本当に運休で帰れないんだろうか・・・
あのボッティチェリさえも 晩年は享楽の半生を省みて 「マグダナのマリア」とか「洗礼者ヨハネ」とか描いて 魂の救済を求めている。・・・
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