68年という年はわたしにとって、一言では括れない年だ。
私は田舎の中学3年生で 外からの情報はテレビと夜時々聞くラジオくらいだっただろうか。地方新聞は家に来ていたが、読んでいたとは思えない。
熱いエネルギーはそれでもどこか私のなかで影響を受けていた。
昨日朝日新聞のコラム佐伯啓思氏の「異論のススメ」を読んで改めてあのころを思った。
「全共闘」については、全くよくわかっていなかったが、権威主義的なもの、資本主義で組織主義的なものには感覚的拒否反応が私の中で育っていったのはこのころの産物だろう。
刺激的な時代だった。東大の入試が中止された年が高1だったか?三島の割腹自殺も冬の日差しが差す(我々がスラム街と呼んでいた)高校文化部部室群前の芝生の上で聞いた。みな、その意味も捉えられずにポカーンと聞いた。大学受験の直前には浅間山荘事件がテレビで生中継されていて、受験で泊めてもらっていた親戚の居間で見た。
確かに、若者が「何か変えよう」とした熱はみるみる萎えていってしまった。
“しらけ”と当時言ったが、オイルショックと共に時代は 現実に立ち向う方向に確かに変わっていった。あのころ長らく工事中だった横浜の駅の地下街が急にきれいになって戸惑ったものだ。エミリオ・グレコの彫刻が置かれていて 自分も変わらなくては・・とどこかで思った。
≪何かを置き去りにしたが、甘さのも欲しかった≫という感覚が当時の私にはある。芸大浪人3年の頃であった。
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