30年前にフォリーニョの町で二人展をおこなった。イタリア人の旧友ヴィートとの展覧会で私にとっては原点のようなものだった。イタリアに行く前の私は美大浪人を繰り返していたが、 時はカウンターカルチャー真っ盛りの70年代後半、アカデミックなデッサン重視の入試は私には全く魅力のないものになっていた。その後紆余曲折ののちイタリアに渡った。 今までの展望のない具象絵画の勉強からからどうやって脱却したらいいのか考えていたころ アカデミアの友人ヴィートが2人展をやろうと誘ってくれた。私はなんとなく抽象表現主義的な絵数枚を用意して翌日の飾りつけのためヴィート宅を訪れた。
当日の朝ヴィートは庭の草を刈り取りキャンバスの裏に詰め始めた。なんだ!?・・・
それが作品だった。会場でその緑は新鮮だった、一日たつと表面のビニールが結露して緑のグラデーションになった。彼はこの中部イタリアの自然を愛しその調和の中での人生のようなことをテーマにしていた。それを刈り取った草で表現しようとしたのだ。
幼稚な発想だと言うのは簡単だ。しかし 何の主張もない美しい絵よりよっぽどアートだ、と感じた。『何が言いたいのか』と言う問いに答えていない絵はアートではない。なんとなく表現的に仕上げた私の作品こそ幼稚に思えた。そう感じさせてもらった二人展だった。
写真はその時のもので 今は亡きYasuji君が写っている。
ヴィートの家を30年後に訪ね 今アートに失望していると言っていたが自然豊かな郊外にたくさんの鶏や猫や犬のいる大きな家を持ち いい家族に恵まれて暮らしているのを見ると昔のテーマが一貫しているなと感じずにはいられなかった。
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