2012年9月29日土曜日

個展の用意

八重洲のT-box画廊のかたの話として『いけばなは 表現の感性がいいね、という評価だけで何を表現しているかの問いが希薄だ』というエッセイを読んだ。生け花については門外漢のわたしだが 今なんとなく絵について考えていることと共通していて気になる言葉だった。確かにみずみずしい感覚の作品に出会った時は感動する。がそれが“点”でなく“線”として作品を見ることは少ない。感覚的作品たちがその底辺でつながっていってその主張が自分のいきかたとかに共鳴したらそれはもう感動以外何者でもない。すなわち感性の表現が瞬間突風ではなくて おおきなうねりの中の一具体例のようなものであってほしいのだ。個展を11月に控えて絵たちの一つ裏側にある『真実』が言えているのか実は踏ん張りどころの私なのだ。

2012年9月17日月曜日

やっと秋 芸術の秋

展覧会に於いて 見て感想が出てこない絵がある。その理由の一つはプロの作家としての覚悟が足りないからだと思うことがある。発表に習作を出されても困る。見る側はその作品の主張を感じようとしているのだから 言いたいことはさて置いてこんなに上手くかけましたよ、なんて言われても困るんだ。そういう意味で絵画教室の発表会的なうちわな展覧会になってしまう展覧会はつまらない。
何をいいたいのかの問いはプロとしての覚悟がいる。一人の人間として生きてきた また生きていく姿勢が見る側の人の究極的な見たいところなのだから。その本質的構造は過酷だが逃げようがない。
私も覚悟があるとは言いがたい甘ちゃんであるが 絵画教室的発表に疑問を持つこともなく活動しお弟子さんを指導している作家さんが多いのは 感心しない。どんなに偉いか知らないがいい大人に指導など出来るわけがないではないか。その辺が日本の文化の中に流れる [先生]と[生徒]の関係で 怪しく感じてしまうところである。生徒側も従順を装い師を敬う光景は悲しいし 大事なこと(生きる姿勢を決めるような)の判断を師に任せるという無責任さはいけない事だ。
多くの人が絵を描き絵に親しんでもらいたいと望むが その入り口辺りに魑魅魍魎が跋扈している。所謂いい生徒ではいい絵はかけないのだ。

2012年9月11日火曜日

帰らざる日々

浪人時代のことである。飯田O校出身の人がこの頃映画を作ったらしい、という噂を聞いた。美術研究所通いもだんだんやさぐれてきたころだったから 自分にはとても遠い世界のようで でもなんかちょっと血が騒ぐ感じがあったのを思い出す。たぶんの同い年の人の活躍だから・・。その映画を見たいと思いつつ数年たってしまったが ある時偶然見ることが出来た。藤田敏八監督の映画であった。『八月の濡れた砂』以来ファンだったので見てみると中身は飯田を舞台にした青春の日々の映画であった。そうか、あの映画だったのか!そして脚本がその人だったのか。母親役の朝丘雪路の飯田弁が地方出身者という訳もわからぬコンプレックスを抱え込んでいた当時の私の体をほっと柔らかくしたものだ。切ない映画で好きになった。
先日その映画と脚本家が飯田に来るという新聞記事を見た。早速行って見ようと決めた。

2012年8月19日日曜日

盆

高校時代からの友人のお母さんが過日亡くなられた。あいにくお葬式には出られなかったので 友人Tとともにお線香をあげに彼の家を訪ねた。道すがら高三のころの話になった。文化祭の盛り上がりの勢いで美術班の数人が5キロほどの道を歩いて彼の家におしかけたのだった。もう暗くなっていたから9時ころではなかったろうか。彼の家の二階に上がりこみ大騒ぎをしたのだ。しかも、一升瓶を友に 女の子もいたと言う。  私はなぜかこの記憶はつい最近まで鮮明ではなかった。たぶん酒に酔ってしまって寝ていたのかもしれない。しかしTはここ十年くらいこの話を時折するので少しずつ思い出して苦笑してしまう。翌日二日酔いの頭を抱えながら彼の家の後方にある大きな谷を眺めていた自分がたしか将来に対する過信と不安のただ中にいたなと思い出した。
彼の家は そういえばあのころのままの大きな二階家で 改めて若気の至りを恐縮した。大きな家はガランとしていて仏壇だけがお母さんの葬式を雰囲気を伝えていた。ここ五年ほどは彼が農業をしながら介護をしていたようでそれからの開放と空虚感がいまの友の姿のようだった。座敷の隣にはもう一つ机がありそこには受験の参考書が積まれてあった。『息子が大学受験なんだ』と言っていた。そうか、あんな馬鹿をやっていたころに息子たちはもうなっているんだ。それにしても今の息子たちがあんなにでたらめでなくて良かったな、と思わず言ってしまった。

2012年8月12日日曜日

アグリッパ

ローマ皇帝アウグストスの副官アグリッパはわれわれにはデッサン用の石膏像として有名であった。中学の美術室にはたいがい備え付けられていたのではないだろうか。紀元前50年ころから300年間(パックスロマーナ)の平和の時代人々は現実主義を生きていたという。たしかにアグリッパの像は写実以外のなんの興味もなさそうで、意志の強そうな軍人の顔つきの表現が爽快だ。また2000年を経たわれわれがその表現を理解できるのも 変な気がする。
そしてその同時代に イスラエルではユダヤ教の中からキリスト教が生まれひたひたとローマに浸透していった。そのころの心を表現した何かに出会いたいと思ったが不勉強なせいかまだない。とここまで書いて 新約聖書がそれそのものではないかという気がした。パオロの手紙とか読んでみよう・・・ちと難しいかな 私には。
アグリッパをわれわれがデッサンした若いころ 目的は物の現実的把握 客観的なものの見方のためであった。その訓練が毎日毎日のデッサンであった。では、その対極にある精神性 または宗教性は何によって高められるのだろうか、前のページでも書いたが ビザンチンを経てロマネスクに至ったキリスト教の壁画にはとても不思議な平和(精神性の高み)がある。パックスロマーナから数百年の所謂暗黒の時代がなにをどうしたのか?

2012年7月28日土曜日

ビザンチンの美術(ロマネスク)

このごろローマ史の本を読んでいてますます惹かれるのが東ローマ帝国のころの美術だ。それも当時としては片田舎の教会の壁画がなんとも優しく 今の世知辛い時代に対しその世界観が魅力的だとおもうのだ。中学生のいじめとか 放射性廃棄物の問題とか もっと卑近なところではものづくりを謳いあげる中小企業の欺瞞さとか(私の働く環境だけではないはず) それに連日の猛暑・・先が暗く うんざりである。
それにひきかえこのキリストは厳しくもあるがなんとおおらかだろうか。あの時代ゲルマン民族大移動で西ローマは滅びながらその裏ではキリスト教が浸透して行ったのだ。ひとびとを救っていった力がここにあるんだろうか?この絵はアーチスト個人の魅力では全くなくその時代の大きな救いの価値観のようなものが私たちをひきつけるのではないだろうか。
どこかの新聞の写真だったとおもうが 調べて実物を見に行きたいな、とちょっとした希望を持つ今日この頃。

2012年7月7日土曜日

arte povera

秋に銀座の画廊るたんで個展を計画中なのだがそのためのパンフレットの原稿がブルガリアから届いた。レッセドラ画廊のギオルギ氏からのものだ。彼が数年前の来日の折 治部坂のミュー自然館で私の個展を見て感動した事を綴ってくれた。1960年代後半にイタリアで提唱され一つのムーブメントとなったArte Poveraの流れとして私の絵を捉えてくれたのだ。 強烈な色彩の絵の具を使って作り上げようとする表現に不自然さや違和感があったわたしには土を使って絵を描くことはさしてアヴァンギャルドなことではなく 自然な成り行きであった。そのあたりの展開はイタリアのアカデミア時代のことであったので自然とアルテポーヴェラの考え方が体に染み込んでいったのかもしれない。事実特別講師としてミケランジェロピストレット、エンリコカステリーニ、ルチャーノファーブロらが来ていたことを思い出す。また友人ヴィートとの二人展で刈ったばかりの草をキャンバスに詰め込んだ彼の作品がわたしにとって大きなショックだったことは以前このブログに書いた。
アルテポーヴェラは日本ではミニマムアートとしての捉え方の方が近いかもしれない。その考えは禅にも通じるところがあるとわたしは考えている。たとえば 茶人が 客を接待するため粗末な小屋に田の泥を塗って壁とし 茶を点てたという。そこにはものに拘らない本質的な一期一会があった。
そんな今では少しロマンチックな考えが私を捉えていて 赤土に入れ込んでいたのだ。ここらあたりの考えが全く会ったこともない異国の紳士に 私の絵を通じて伝わったということは しかも治部坂という日本の奥山の中で 奇跡としか言いようがない!アートは通じるのだ。
昨年暮れブルガリアを訪れ初めて会ったギオルギ氏は旧知の友のようだった。