2013年10月23日水曜日

紅葉が始まった美術館の森

今年は台風がなんども迫ってくる。いい季節なのに被害が出たりで困ってしまう。
私もミュー自然美術館での個展が18日にオープンしたのですが 雨が多くてなかなか人に来てもらえない状況、・・・
先週の土曜日は降り続いていた雨が 運よく朝の内に止んで気持ちのいい一日を美術館で過ごしたのです。といっても日の光は夕方少し差しただけでしたけど。
濡れた森の匂いをみなさんはごぞんじでしょうか?
雨の深い森にいたことはありますか?まあ森で遭難するようなことはそうないのでそんな経験の方は少ないと思いますが、あのひんやりとした空気と木々の匂い、やや薄暗くて緊張感があって・・・でも、なんともいえない爽快感があってと、とてもいい気持ちなのです。(遭難は別ですが)
先週の土曜日は森の中の美術館だけにそんな空気が一日立ちこめていたのです。非日常的でした。数少ない訪問者とゆっくりお話をすることができ とても落ち着いた気分でいられました。
夕方も微かな日の光に映える始まったばかりの紅葉をたのしみました。
台風が今週末も来るようで あまり風流にしたっていられないけれど いい日を選んで非日常をたのしみにぜひぜひ
お出でください。

2013年10月12日土曜日

ミュー自然美術館の展示に言葉を添えよう

さて、この18日金曜日からミュー美術館にて個展が始まります。紅葉のいい季節なのでぜひぜひ多くの皆さんに来ていただきたいと思います。
今回は新作ばかりの展示ではなくここ数年の作品と今年のものを対比するような形を考えております。それから作品に自らの言葉を添えてみようかなとも考えています。それはここ数年ギャラリートークのようなものを展覧会ごとに行っていて、時として言葉も初めてみる絵に近づくヒントに成り得ると思ったからです。私がいない時でも来館者に見る参考にしてもらえればわたしの絵のちょっとした入り口なるかもしれない。
今までの描き終え展示してしまえば後は知らないという態度では よほど私の絵を見てきた人にしか理解してもらえないだろうなとやっと解ってきて反省しているのです。立石のギャラリー南無の展示を何年かやって思い始めギャラリートークという形にしましたが もう少し前に進んだ自分の絵の売り込みという形だけは未だに苦手です。
ホームページをパソコン教室で習いました。早速、個展の自作ホームページを公開します。
これこそ皆さん 見てくださいませ。
http://www53.atpages.jp/kinnjimisawa/

2013年10月5日土曜日

汚染水どうなってんの?

とても一般論で 私が書くことでもないような気がするんだけど、でもちょっとオカシイ・・と感じているので書くことにしました。それは東電のこと---
オリンピック招致に「汚染水はコントロールされている」と世界に大見栄を切ったようだけど、東電の姿勢はどうみてもお粗末の限りだ。私が勤めていた零細企業でも(製造業)不適合品が出ると一大事で<なぜなぜ>対策書を執拗に書かされて その根絶を要求された。また予防の策も常に考えさせられていた。だからそれが今や製造に関わる世界では当たり前と思っている。また、この頃私が通っているパソコンの教室でもエクセルを使ってのQC手法が授業にあるくらいだから、もっと高度な品質管理体制の大企業(その上間違いの許されない原子力の会社)がつまらないミスを出すはずがないと思うのだ。しかし続出している-----
何か構造的に問題があるに違いないと思う。そのあたりはなぜ明らかにさせて行けないのだろう。まるであの白い放射能防御スーツによって誰がいるのがわからないように 責任が消えていってしまうようだ。
スパイク・リー監督の銀行強盗の映画に似たストーリーがあった。グループで銀行を襲って、大量の人質を取る。そしてみんな全く同じツナギとマスクを着させる。犯人たちも。そうなると警察は手が打てない・・・
しっかりした原因追求が入り オープンな対策を望みたい。そうでなければ福島の漁業も先が見えないに違いない。また、東電の手法も怪しげで何も信用できないではないか。新潟の柏崎も稼動の方向だという。不透明に中電も関西電力もそちらの方向に向かいだすのは不気味でならない。消費税アップのために経済を上向きにしていかねばならない必要性が変な動きになっていかなければいいけど。

2013年9月23日月曜日

高松宮殿下記念世界文化賞

秋分の日の昼にゆっくりしながらテレビを見ていたら 懐かしいアート作品が急に映し出された。唐突に昔に引き戻された感覚だった。首記の文化章に イタリアで授業を1~2回ほど受けたことのあるミケランジェロ ピストレットが受賞したというニュースだった。
なんと懐かしい。ペルージアは田舎の美術大学(学院)で私が通っていたころはちょうど学校の変革期、1年のころはデッサンをマッタリやっているようなつまらないカリキュラムだった。2年になると校長がローマの人に代わり 革新的な先生が多く入ってきた。学生たちも熱が入った。特におもしろかったのは美術史の先生で 毎月当時の最先端(ちょっと後かな?)のARTE POVERAの作家たちを連れてきて講義をやってくれたのだ。そのなかに彼もいて ある日町の噴水を学生たちと手を繋いで囲んだパフォーマンスをやった。「なんだかなー」と当時私は思ったんだが後で写真を見るととてもかっこよかった。
熱くていやに照れくさい時代だ。でもとても大切にしたい時代だ。だからARTE POVERAのことを思い出させてもらって ブルガリアのギオルギさんにはとっても感謝している。そのいきさつは昨年銀座るたんの個展でパンフレットにギオルギさんが投稿(昨年10月20日ソフィアからのメッセージ;このホームページ)してくれた。そして自分のやっていることはちゃんとした基礎の上でやっていることなんだと改めて思うことにした。

 

2013年9月21日土曜日

パソコン劣等生は思う

久々の投稿になりました。以前にも書いたパソコン教室にこのところ没頭して・・ 否 頭が占領されていて他のことが出来なかったというのが本当のところかもしれません。正直授業についていくのがいっぱいいっぱいなのです。15人の生徒の中で私の世代は2人だけ そして男も2人、完全なアウェイ状態といえます。指も頭もスピードのステージが違いすぎてどうしても超緊張を強いられているのです。夜は倒れる様に爆睡です。
止むを得ず絵を離れて2月ほど こんなことは20年来なかった。だから自分の絵について なんとなくちょっとはなれた思いを書き留めてみたくなった。
①土の質感はやっぱり好きだけどそこから離れられないのか。
②画面が漠然としていて言いたいことが直接的でない。もっと端的にならないのか。
さて、パソコンを毎日やっていて思う・・・この膨大な そして日々の 些細なデータを一つ一つ入力して それを解析する。そして何らかの法則で既定の手をうつ。昔のように数少ない天才が個人的にやっていたことを今や誰でもパソコンによってやり得る。社会の質的な規模は無個性ではあるが大いに高まっていくのはよくわかる。
この膨大な仕事量を現代の私たちは抱えて生きていると思う。好き嫌いに関わらず。便利な電気はあるが同時に放射性廃棄物もある。高速道路はあるが国の借金もある。今平和な暮らしがあるが近いうち80%の確立で南海大地震があることも知っている。地球温暖化は・・・
中世から天才たちが近代を切り開き、その後テクノロジーが現代を展開させている。でも私たちの暮らしは、嬉しく楽しんでいられるんだろうか?心安らかなものなんだろうか?
テクノロジーの発展はクールな生き方も必要だが、幼い子供の不機嫌な顔に何か共感するところがあるのもわかる気がする。奈良の絵を思い浮かべてみた。

2013年8月31日土曜日

キラキラ レインボーに輝くCD

デジタル関係の道具は日々増加している。それは確かに便利ではあるが私自身が置き去りにされている感じもある。
また これは一般論だが今の50歳か~60歳の世代の次の世代はいろいろな組織にあまり組みしようとしていないと感じる。例えば隣組の自治会とか 農業関係の組織とか 公募団体、わたしもこれらの組織の持つ意義には若いころから抵抗してきたが いよいよこの頃はそれさえ考えず参加などありえないという世代になってきたように思える。
言葉は 母から教わり 気がつけばその母とも口論が出来るほどになる。しかし他の表現方法は習得に苦労がいって、ピアノや歌などは先生につかなくてはなかなか身につかない。工芸の技術もそうだろう。所謂弟子入りの形態だ。しかしこれは人間関係がとても濃厚で精神的には中世的修行なので技術こそ素晴らしいが今はあまり考えられない。学校がそれに代わった。師弟の関係も少しは距離が保たれ 女性も進出できるようになった。しかし組織化がおこり
平面領域展:犬塚邸会場
妙な権威主義のおまけもついてしまった。・・・
ここでデジタル世界の登場である。もう初歩の人も仰ぐべき師がいなくてもパソコンさえあれば何か出来る、ということになった。下積みという概念は無くなったかもしれない。一人でしかもオリジナルの世界を作れるとしたらめんどうな人間関係に首をつっかまなくてもいいというわけなのだ。
私には このデジタルの世界がまだまだ外国語なのでここで世界を作るということはマズない。今まではむしろ批判的にアナログな絵(土の絵)を描いていた。だが、これからは身近に考えていかなければいけない世界になっていく。・・・平面領域展原隆夫氏の虹色に輝くCDの作品を思い出しながら考えた。

2013年8月27日火曜日

第4回平面領域展始まる

雑念の中で私の「平面領域展」が始まった。自分の思いを突っ込んで突っ込んでいくことがひとつの方向性といつごろからか思い込んでいたが、空回りしてるな、ともうすうす思っていた。今年の春ころからのコプトシリーズが転機になってほしいなと考え今回の展示に臨んだ。
明るくなった、とか言い切りができたとか、嬉しい評価をもらえてとても喜んでいる。それまでは全く筆が進まなかったんだから天と地ほど心持は変わってしまった。
実は 「これらの絵は ある到達点に来ているから筆を入れてはならない」という思いもあった。自信もさしてなく、昔からの思い込みで(描き込まなくてはいけない)不安ばかりの日々が展覧会の前一ヶ月間続いた。
まあ、__『ごちゃごちゃと黒くなるほど手を入れれば思いは表現できるんだ』という思想は間違えである__肝に銘じたいもんだ。