2012年3月18日日曜日

夢の庭画廊

来月は3年ぶりに上田の夢の庭画廊で個展を開くことになっている。この画廊は有名な無言館のすぐ近くにあって 陶芸家の小澤楽邦氏の私邸の広い庭の一角にある。当然小澤氏がオーナーであるが まことにユニークな人柄で(俳優の山崎努似・・・) 全国の多くの友人たちとつながりを持ちながら画廊運営を楽しまれているようだ。昔からミニコミを発行されていて 時々送られてくるその記事はまことに多様で興味深い。
さて 今回は私にとってもとても大事な展覧会と位置付けている。なぜならあの大きな震災の後 何について表現するのか 自分はなにを言いたいのか ----そこが問われていると思うから。
その庭は みごとなバラも咲くころだろうな。

2012年3月10日土曜日

明日はもう3.11

過日 今開かれている現代の創造展の懇親会があった。40人くらいの参加者の会であった。2~3年前から私も顔を出しているが、大方は60代から70代といった年齢層で元気な老人クラブ的な雰囲気がある。微笑ましいのであるがアートの会とは ちと、趣が違うかも知れない。若い人がいないのだ。南画会の方もそう言っておられた。・・・だろうな。
書道なんか若い女の子には ブームなのにいっこうに既存の書道会には入ってこない。・・・だろうな。
洋画のグループも同様な話を聞く。 結局今の若い人の思いを表現できる世界ではないんだろうなあ。
少し違うが 先日隣組の来年度の役員等をきめる会合があった折、似た行き詰まり感があった。若い人が実際少ない、そして参加を嫌う。だから今のままの自治体を構成していくのが難しいのだ。《簡素な組織に改革を》と掛け声は存在したが先送り続きで、実態がとっくに先に行ってしまったのだ。
『いいたいことはあるけれど、自分が少し我慢すれば みんなに迷惑掛けないで済む』といったことを全員が考えているので、『ここを変えて行こう』とは言わないし、全体についてのことを誰も考えたがらない。
鬱とうしい、めんどうくさい、自分ひとりでは何もできない。だから家に篭ってまんがっか~!
東北大震災があって明日で1年、そして原発事故。自らを変えていかなくてはならないはずだ。

2012年2月12日日曜日

飯伊50人展

なんとか飾りつけを終えることができた! 実行委員として名前があがっているだけに責任は痛感していたが こんなに展示がハードとは思わなかった。主にオーソドックスな平面作品の展示責任者と役割を仰せつかったのだが 私の作品は現代美術なのでかなり難しい仕事だと言わざるを得ない。半具象的な油彩画は 一つ一つ見ると 理解できるのだが 複数になるとどうして重くなってしまうのだろう。展示についてここが最後まで解決できなかったことを残念に思う。
一方 今回久保田(寛)氏の昆虫戸棚にはとても嬉しかった。飯田で創作活動をしているからこそ出来る作品だし生き方だと思う。もし都会で発表を続けていればつまらぬ価値観に絡め取られてオリジナリティが失われてしまっただろう。あの制作態度が飯伊作品展の最大の意義だと私は考えたい。都会の価値観を移入する時代ではもはやないはずだ。
この展覧会のスタートに疑問をもつ方がいると聞く。しかし これから価値観の自立性を高めて 個人個人がヒラバ(平場)で作品を発表し 見る人も価値観を人から授かるのではない関係が育っていく展覧会になれば それでよいのでは、・・・

私は現代の創造展でも 実行委員会のメンバーで 決してこれを否定してこの50人展を始めようと考えたのではない。にっちもさっちも動きが取れない会に間接的にすこしでも風が当たればいいと感じているのだ。この辺りを理解して参加してくれた皆様 ありがとうございました。

2012年2月4日土曜日

飯田の地元展2つ

この時期になると飯田市美術博物館で現代の創造展が開かれる。(2月21日から3月11日まで。)飯田市下伊那の日本画 洋画 版画 彫刻 書 工芸の作家たち百数十名の展覧会で、今年は12回目になる。この地区の代表のような大きな展覧会であるが中身はもやもやしていてよくわからないことが多い。なぜならいくつもの価値観(それぞれのアートの価値観だけでなく処世術的価値観も)が既得権として内在してしまっているから。なかなか改革はできない。同じような形を続けていくことが目的化してしまうのだ。マンネリ化しつまらなくなってしまうのは当然かもしれない。
どうしたらいいんだろうと考えつつ 有志で新しい展覧会を立ち上げた。《飯伊50人展》というものだ。個人の主張やテーマは個展で展開すべきもの、共通のテーマや切り口はグループ展がいい。さて この地域に関わる作家たちが一同に発表するとすればどんな可能性が出てくるのだろう。そしてこの漠然とした展覧会は回を重ねてどんな発展が出来るのだろうか?参加者全員の発展性がないと上記美博の会と同じになってしまうだろう。参加者の新陳代謝もポイントだろう。
私としてこの展覧会に期すところは個人としての参加ということだと思っている。何処何処会(または誰先生)の推薦による参加は考えたくない。参加者の責任はこの展覧会が持ち続けなくてはいけない。そう思うとこの会は大きすぎるような気もしてきた。・・・実行委員の責任は重いな。憂鬱(!)。

2012年1月21日土曜日

原点

30年前にフォリーニョの町で二人展をおこなった。イタリア人の旧友ヴィートとの展覧会で私にとっては原点のようなものだった。イタリアに行く前の私は美大浪人を繰り返していたが、 時はカウンターカルチャー真っ盛りの70年代後半、アカデミックなデッサン重視の入試は私には全く魅力のないものになっていた。その後紆余曲折ののちイタリアに渡った。 今までの展望のない具象絵画の勉強からからどうやって脱却したらいいのか考えていたころ アカデミアの友人ヴィートが2人展をやろうと誘ってくれた。私はなんとなく抽象表現主義的な絵数枚を用意して翌日の飾りつけのためヴィート宅を訪れた。
当日の朝ヴィートは庭の草を刈り取りキャンバスの裏に詰め始めた。なんだ!?・・・
それが作品だった。会場でその緑は新鮮だった、一日たつと表面のビニールが結露して緑のグラデーションになった。彼はこの中部イタリアの自然を愛しその調和の中での人生のようなことをテーマにしていた。それを刈り取った草で表現しようとしたのだ。
幼稚な発想だと言うのは簡単だ。しかし 何の主張もない美しい絵よりよっぽどアートだ、と感じた。『何が言いたいのか』と言う問いに答えていない絵はアートではない。なんとなく表現的に仕上げた私の作品こそ幼稚に思えた。そう感じさせてもらった二人展だった。
写真はその時のもので 今は亡きYasuji君が写っている。
ヴィートの家を30年後に訪ね 今アートに失望していると言っていたが自然豊かな郊外にたくさんの鶏や猫や犬のいる大きな家を持ち いい家族に恵まれて暮らしているのを見ると昔のテーマが一貫しているなと感じずにはいられなかった。

2012年1月13日金曜日

思い出を噛み返す

牛が噛み返しをするように ふと気がつくと暮れの旅行を思い出してしまう。考えてみればなかなか得難い時間だったし尊い人との触れ合いだった。だから、その旅の断片を思い出すに任せて 書いてみようと思い直した。
Vitoの家から車で15分くらいのFolingoの街は懐かしくて改めて好きになった。中部イタリアの町では珍しく丘の上になく平らな町並みで温和な感じがする。Vito宅に泊めてもらった次の朝 Luciaとともに訪れた。寒い朝だったが 町の中心の市庁舎前の広場は比較的おしゃれした人々が集まっていてそれぞれにおしゃべりしたり ちょっと歩いたりと心豊かな風景だった。クリスマス前の日曜ということもあってかとてもいい雰囲気に感じた。今思えばもう50メートルほど通りを歩いて30年前にVitoといっしょのやった二人展の会場を見るべきだったと思う。たしかあそこだなと遠くで見ただけだった。
Luciaの実家にも立ち寄って見せていただいた。今は年老いたお母さんと長女Margheritaが住んでいるという。お母さんは教会のミサに行って留守だった。Margheritaにとっては駅が近くペルージア大学に通うのに便利なようだ。だんだん親から離れていくんだな・・
昔 イタリアの社会になかなか入っていけないなと感じていたが いまこうしてここにいるととても近くに感じる。
通りに出ると『チャオ ルチア!いいクリスマスを』と近所の人が声を掛けていた。

2012年1月4日水曜日

諏訪の石仏

昨年から続くイベントの最後は父の米寿を祝う家族旅行であった。明日から仕事始めの妻は ため息ともつかない大きな息をして 『ああー、やっと一区切りついた』と言った。ヨーロッパ旅行の準備、そして旅行、つぎは家族旅行とほんとに大仕事続きであった。ご苦労様であったと思う。楽しいことが続いた後は 生活に日常を取り戻せねばならない。娘は なぜか気に入っている言葉 【万時 塞翁が馬】を繰り返しつぶやいている。気を引き締めていないとよくないことでも来るのか・・・
さて その家族旅行は諏訪であった。朝30分ほど 寒風の中歩いて 石仏を見に行った。不思議な魅力の石仏だ。いわれを聞くと偶然のながれ(この巨石を鳥居に使おうと石工がノミを入れると石が血を流した。それで鳥居に使うのをやめ石仏にしたという。)の中でできたというが、その美意識は太古のおおらかな人間(神とともにいる)を感じる。そしてそれは偶然じゃない、今の価値観とは異なる時代の美の表出と思う。岡本太郎が再発見したいわれがそこにあると思う。