とても一般論で 私が書くことでもないような気がするんだけど、でもちょっとオカシイ・・と感じているので書くことにしました。それは東電のこと---
オリンピック招致に「汚染水はコントロールされている」と世界に大見栄を切ったようだけど、東電の姿勢はどうみてもお粗末の限りだ。私が勤めていた零細企業でも(製造業)不適合品が出ると一大事で<なぜなぜ>対策書を執拗に書かされて その根絶を要求された。また予防の策も常に考えさせられていた。だからそれが今や製造に関わる世界では当たり前と思っている。また、この頃私が通っているパソコンの教室でもエクセルを使ってのQC手法が授業にあるくらいだから、もっと高度な品質管理体制の大企業(その上間違いの許されない原子力の会社)がつまらないミスを出すはずがないと思うのだ。しかし続出している-----
何か構造的に問題があるに違いないと思う。そのあたりはなぜ明らかにさせて行けないのだろう。まるであの白い放射能防御スーツによって誰がいるのがわからないように 責任が消えていってしまうようだ。
スパイク・リー監督の銀行強盗の映画に似たストーリーがあった。グループで銀行を襲って、大量の人質を取る。そしてみんな全く同じツナギとマスクを着させる。犯人たちも。そうなると警察は手が打てない・・・
しっかりした原因追求が入り オープンな対策を望みたい。そうでなければ福島の漁業も先が見えないに違いない。また、東電の手法も怪しげで何も信用できないではないか。新潟の柏崎も稼動の方向だという。不透明に中電も関西電力もそちらの方向に向かいだすのは不気味でならない。消費税アップのために経済を上向きにしていかねばならない必要性が変な動きになっていかなければいいけど。
2013年10月5日土曜日
2013年9月23日月曜日
高松宮殿下記念世界文化賞
秋分の日の昼にゆっくりしながらテレビを見ていたら 懐かしいアート作品が急に映し出された。唐突に昔に引き戻された感覚だった。首記の文化章に イタリアで授業を1~2回ほど受けたことのあるミケランジェロ ピストレットが受賞したというニュースだった。なんと懐かしい。ペルージアは田舎の美術大学(学院)で私が通っていたころはちょうど学校の変革期、1年のころはデッサンをマッタリやっているようなつまらないカリキュラムだった。2年になると校長がローマの人に代わり 革新的な先生が多く入ってきた。学生たちも熱が入った。特におもしろかったのは美術史の先生で 毎月当時の最先端(ちょっと後かな?)のARTE POVERAの作家たちを連れてきて講義をやってくれたのだ。そのなかに彼もいて ある日町の噴水を学生たちと手を繋いで囲んだパフォーマンスをやった。「なんだかなー」と当時私は思ったんだが後で写真を見るととてもかっこよかった。
熱くていやに照れくさい時代だ。でもとても大切にしたい時代だ。だからARTE POVERAのことを思い出させてもらって ブルガリアのギオルギさんにはとっても感謝している。そのいきさつは昨年銀座るたんの個展でパンフレットにギオルギさんが投稿(昨年10月20日ソフィアからのメッセージ;このホームページ)してくれた。そして自分のやっていることはちゃんとした基礎の上でやっていることなんだと改めて思うことにした。
2013年9月21日土曜日
パソコン劣等生は思う
久々の投稿になりました。以前にも書いたパソコン教室にこのところ没頭して・・ 否 頭が占領されていて他のことが出来なかったというのが本当のところかもしれません。正直授業についていくのがいっぱいいっぱいなのです。15人の生徒の中で私の世代は2人だけ そして男も2人、完全なアウェイ状態といえます。指も頭もスピードのステージが違いすぎてどうしても超緊張を強いられているのです。夜は倒れる様に爆睡です。
止むを得ず絵を離れて2月ほど こんなことは20年来なかった。だから自分の絵について なんとなくちょっとはなれた思いを書き留めてみたくなった。
①土の質感はやっぱり好きだけどそこから離れられないのか。
②画面が漠然としていて言いたいことが直接的でない。もっと端的にならないのか。
さて、パソコンを毎日やっていて思う・・・この膨大な そして日々の 些細なデータを一つ一つ入力して それを解析する。そして何らかの法則で既定の手をうつ。昔のように数少ない天才が個人的にやっていたことを今や誰でもパソコンによってやり得る。社会の質的な規模は無個性ではあるが大いに高まっていくのはよくわかる。
この膨大な仕事量を現代の私たちは抱えて生きていると思う。好き嫌いに関わらず。便利な電気はあるが同時に放射性廃棄物もある。高速道路はあるが国の借金もある。今平和な暮らしがあるが近いうち80%の確立で南海大地震があることも知っている。地球温暖化は・・・
中世から天才たちが近代を切り開き、その後テクノロジーが現代を展開させている。でも私たちの暮らしは、嬉しく楽しんでいられるんだろうか?心安らかなものなんだろうか?
テクノロジーの発展はクールな生き方も必要だが、幼い子供の不機嫌な顔に何か共感するところがあるのもわかる気がする。奈良の絵を思い浮かべてみた。
止むを得ず絵を離れて2月ほど こんなことは20年来なかった。だから自分の絵について なんとなくちょっとはなれた思いを書き留めてみたくなった。
①土の質感はやっぱり好きだけどそこから離れられないのか。
②画面が漠然としていて言いたいことが直接的でない。もっと端的にならないのか。
さて、パソコンを毎日やっていて思う・・・この膨大な そして日々の 些細なデータを一つ一つ入力して それを解析する。そして何らかの法則で既定の手をうつ。昔のように数少ない天才が個人的にやっていたことを今や誰でもパソコンによってやり得る。社会の質的な規模は無個性ではあるが大いに高まっていくのはよくわかる。
この膨大な仕事量を現代の私たちは抱えて生きていると思う。好き嫌いに関わらず。便利な電気はあるが同時に放射性廃棄物もある。高速道路はあるが国の借金もある。今平和な暮らしがあるが近いうち80%の確立で南海大地震があることも知っている。地球温暖化は・・・
中世から天才たちが近代を切り開き、その後テクノロジーが現代を展開させている。でも私たちの暮らしは、嬉しく楽しんでいられるんだろうか?心安らかなものなんだろうか?
テクノロジーの発展はクールな生き方も必要だが、幼い子供の不機嫌な顔に何か共感するところがあるのもわかる気がする。奈良の絵を思い浮かべてみた。
2013年8月31日土曜日
キラキラ レインボーに輝くCD
デジタル関係の道具は日々増加している。それは確かに便利ではあるが私自身が置き去りにされている感じもある。
また これは一般論だが今の50歳か~60歳の世代の次の世代はいろいろな組織にあまり組みしようとしていないと感じる。例えば隣組の自治会とか 農業関係の組織とか 公募団体、わたしもこれらの組織の持つ意義には若いころから抵抗してきたが いよいよこの頃はそれさえ考えず参加などありえないという世代になってきたように思える。
言葉は 母から教わり 気がつけばその母とも口論が出来るほどになる。しかし他の表現方法は習得に苦労がいって、ピアノや歌などは先生につかなくてはなかなか身につかない。工芸の技術もそうだろう。所謂弟子入りの形態だ。しかしこれは人間関係がとても濃厚で精神的には中世的修行なので技術こそ素晴らしいが今はあまり考えられない。学校がそれに代わった。師弟の関係も少しは距離が保たれ 女性も進出できるようになった。しかし組織化がおこり
妙な権威主義のおまけもついてしまった。・・・
ここでデジタル世界の登場である。もう初歩の人も仰ぐべき師がいなくてもパソコンさえあれば何か出来る、ということになった。下積みという概念は無くなったかもしれない。一人でしかもオリジナルの世界を作れるとしたらめんどうな人間関係に首をつっかまなくてもいいというわけなのだ。
私には このデジタルの世界がまだまだ外国語なのでここで世界を作るということはマズない。今まではむしろ批判的にアナログな絵(土の絵)を描いていた。だが、これからは身近に考えていかなければいけない世界になっていく。・・・平面領域展原隆夫氏の虹色に輝くCDの作品を思い出しながら考えた。
また これは一般論だが今の50歳か~60歳の世代の次の世代はいろいろな組織にあまり組みしようとしていないと感じる。例えば隣組の自治会とか 農業関係の組織とか 公募団体、わたしもこれらの組織の持つ意義には若いころから抵抗してきたが いよいよこの頃はそれさえ考えず参加などありえないという世代になってきたように思える。
言葉は 母から教わり 気がつけばその母とも口論が出来るほどになる。しかし他の表現方法は習得に苦労がいって、ピアノや歌などは先生につかなくてはなかなか身につかない。工芸の技術もそうだろう。所謂弟子入りの形態だ。しかしこれは人間関係がとても濃厚で精神的には中世的修行なので技術こそ素晴らしいが今はあまり考えられない。学校がそれに代わった。師弟の関係も少しは距離が保たれ 女性も進出できるようになった。しかし組織化がおこり
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| 平面領域展:犬塚邸会場 |
ここでデジタル世界の登場である。もう初歩の人も仰ぐべき師がいなくてもパソコンさえあれば何か出来る、ということになった。下積みという概念は無くなったかもしれない。一人でしかもオリジナルの世界を作れるとしたらめんどうな人間関係に首をつっかまなくてもいいというわけなのだ。
私には このデジタルの世界がまだまだ外国語なのでここで世界を作るということはマズない。今まではむしろ批判的にアナログな絵(土の絵)を描いていた。だが、これからは身近に考えていかなければいけない世界になっていく。・・・平面領域展原隆夫氏の虹色に輝くCDの作品を思い出しながら考えた。
2013年8月27日火曜日
第4回平面領域展始まる
雑念の中で私の「平面領域展」が始まった。自分の思いを突っ込んで突っ込んでいくことがひとつの方向性といつごろからか思い込んでいたが、空回りしてるな、ともうすうす思っていた。今年の春ころからのコプトシリーズが転機になってほしいなと考え今回の展示に臨んだ。
明るくなった、とか言い切りができたとか、嬉しい評価をもらえてとても喜んでいる。それまでは全く筆が進まなかったんだから天と地ほど心持は変わってしまった。
実は 「これらの絵は ある到達点に来ているから筆を入れてはならない」という思いもあった。自信もさしてなく、昔からの思い込みで(描き込まなくてはいけない)不安ばかりの日々が展覧会の前一ヶ月間続いた。
まあ、__『ごちゃごちゃと黒くなるほど手を入れれば思いは表現できるんだ』という思想は間違えである__肝に銘じたいもんだ。
明るくなった、とか言い切りができたとか、嬉しい評価をもらえてとても喜んでいる。それまでは全く筆が進まなかったんだから天と地ほど心持は変わってしまった。
実は 「これらの絵は ある到達点に来ているから筆を入れてはならない」という思いもあった。自信もさしてなく、昔からの思い込みで(描き込まなくてはいけない)不安ばかりの日々が展覧会の前一ヶ月間続いた。
まあ、__『ごちゃごちゃと黒くなるほど手を入れれば思いは表現できるんだ』という思想は間違えである__肝に銘じたいもんだ。
2013年8月17日土曜日
夏のばら
今年の夏はほんとに暑くてつらいな、と嘆く日々である。でもつらいのは実は展覧会を前にした憂鬱であるとも気がついている。
昔から自分の絵が[所謂世の中から]認められたいと切望していた。しかしこの歳になると それはちょっと現実離れした夢ではないかとわかり始めるに至る。だって日本では百人足らずの絵描きしか絵では喰って行けないそうだから。ちなみに文筆家は50人余だそうである。あれだけ毎年芥川賞や直木賞やらで新人が華々しくデビューしてるのに・・・
今年に入ってから そんな気分だから『好きな絵を描いていけばいいじゃあないか』とわりとゆるく構えて絵を描いていた。ところがここのところ全く筆が進まないのだ。根が真面目な私は何ともすっきりしない日々となってしまった。 自分の中で[所謂いい絵]という価値観が頭を擡げてきてしまったのだろう。自分の作品は汚くて 弱くて云々・・は許せないと自分を縛り始めたというわけだ。こういう葛藤は「今さら何を言ってんだ」感がいっぱいだが 今さら悩まされる。大事なとこだけ見てればいいんだよ 怠惰でもいいんだよ と自分に言い聞かせ久しぶりに筆を持つ。ばらの色にいやされる。
昔から自分の絵が[所謂世の中から]認められたいと切望していた。しかしこの歳になると それはちょっと現実離れした夢ではないかとわかり始めるに至る。だって日本では百人足らずの絵描きしか絵では喰って行けないそうだから。ちなみに文筆家は50人余だそうである。あれだけ毎年芥川賞や直木賞やらで新人が華々しくデビューしてるのに・・・今年に入ってから そんな気分だから『好きな絵を描いていけばいいじゃあないか』とわりとゆるく構えて絵を描いていた。ところがここのところ全く筆が進まないのだ。根が真面目な私は何ともすっきりしない日々となってしまった。 自分の中で[所謂いい絵]という価値観が頭を擡げてきてしまったのだろう。自分の作品は汚くて 弱くて云々・・は許せないと自分を縛り始めたというわけだ。こういう葛藤は「今さら何を言ってんだ」感がいっぱいだが 今さら悩まされる。大事なとこだけ見てればいいんだよ 怠惰でもいいんだよ と自分に言い聞かせ久しぶりに筆を持つ。ばらの色にいやされる。
2013年8月10日土曜日
平面領域展近づく
ビエンナーレ形式のこの展覧会は今年が開催年だ。なんか早いなー、もう二年たつんだから。今月24日から9月1日まで、飯田創造館と今年は松尾の犬塚邸、および中央通の吾亦紅でも開催となる。いつものメンバーなので、殆ど桐生さん任せで「後は展示のとき会いましょう」、という感じである。いいのかなーと思う反面 あまり揉めなくてらくだ。
いいのかなーって感じるのは 当初は現代美術をもっと知って貰いたい、という意識が強かったので「みんなでちょっとした風を起そうぜ」なんて意気込んでいた。・・もうぼつぼつ10年の時が流れるのかなー、飯田の文化意識は菱田春草に代表されるような近代好きで アートというより書画骨董系のファンが多かった。だから鑑賞のテーマは『安定』、『調和』、『美』が基本。 不安定な心を表現する といった考えは敬遠されてきた。例えば山本弘の手法は現代美術ではないが受け入れられなかった。日展系日本画が主流だったといえよう。だから絵を学ぼうという人たちも形から入ってそれでよしとしているように見えてならなかった。
私たちは 今この飯田に生きていてこんな思いで暮らしているんだといった心持を表現してみた。それは全く『調和』でもなければ『安定』でもない、所在無い一人間の悲しさみたいなものだ。この表現にどう反応してくれるかが(ありきたりの美にありきたりの感動するのではなく) 現代美術のひとつの基本的な形ではないかと考えてこの展覧会を始めたと私は考えている。
決して私たちのやっていることが新しいことだから田舎で発表しているんだとは全く思ってはいない。例えば私が挑戦している抽象画は すでにその抽象性がゆえに「何がなんだかわからん」とか「描きたいものを描いてなぜ悪い」とか批判を受け絵画の危機といわれるに至った。そして登場したのが奈良美智や村上隆たちだ。・・・そんな世代がちょっと倦怠期のこの展覧会にも参加してほしいものだ。
いいのかなーって感じるのは 当初は現代美術をもっと知って貰いたい、という意識が強かったので「みんなでちょっとした風を起そうぜ」なんて意気込んでいた。・・もうぼつぼつ10年の時が流れるのかなー、飯田の文化意識は菱田春草に代表されるような近代好きで アートというより書画骨董系のファンが多かった。だから鑑賞のテーマは『安定』、『調和』、『美』が基本。 不安定な心を表現する といった考えは敬遠されてきた。例えば山本弘の手法は現代美術ではないが受け入れられなかった。日展系日本画が主流だったといえよう。だから絵を学ぼうという人たちも形から入ってそれでよしとしているように見えてならなかった。私たちは 今この飯田に生きていてこんな思いで暮らしているんだといった心持を表現してみた。それは全く『調和』でもなければ『安定』でもない、所在無い一人間の悲しさみたいなものだ。この表現にどう反応してくれるかが(ありきたりの美にありきたりの感動するのではなく) 現代美術のひとつの基本的な形ではないかと考えてこの展覧会を始めたと私は考えている。
決して私たちのやっていることが新しいことだから田舎で発表しているんだとは全く思ってはいない。例えば私が挑戦している抽象画は すでにその抽象性がゆえに「何がなんだかわからん」とか「描きたいものを描いてなぜ悪い」とか批判を受け絵画の危機といわれるに至った。そして登場したのが奈良美智や村上隆たちだ。・・・そんな世代がちょっと倦怠期のこの展覧会にも参加してほしいものだ。
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