2020年12月19日土曜日

第21回現代の創造展が盛況のうちに終了

コロナ禍で なかなか準備や打ち合わせがままならぬ中 どうにか先月開催にたどり着くことができた21回展覧会でしたが 以外にも多くの方々にご来場いただき大変盛況のうちに終了することができました。事務局の調査によると3000人を超える来館者数で、過去4番目の多さとのことでした。来館者の方々、関係者方々に御礼申し上げる次第です。

主な要因は①コロナ禍で多くの展覧会が中止となり、作家側も鑑賞者もともに美術に触れたいという思いが満たされないなかで 近場で しかも比較的不安が少ない展覧会であったためではなかったか、それに②個々の作品の充実に加え展示の工夫もあったのではないかというアンケート結果があったようで、嬉しい結果でした。特に展示係(松井利明、小池誠、私)にとりましては一歩踏み込んだ展示であっただけに嬉しいご意見でした。

さて、その展示については 前回に引き続き日本画とか洋画などのジャンルの壁を取り外した新しい展示の形でした。そのめざす意味はアートの神髄について問いかける斬新な視点を醸し出すものではないだろうか・・・と。

この「現代の創造展」は 飯田下伊那地区に関わりあいを持ち かつ現代を生きる作家が どう生き何を言おうとしているのか を表現しているかの発表の場であるはずだから ジャンルという形を外したところではより「そのもの」が見えてくるはずだ。と考えるのです。「そのもの」がだれかに何かインスピレーションとして届いたとしたらそれはズバリ飯田のアートなのではないでしょうか。

私たち展示係は その作品たちをテーマごとに括ることで何かが見えてこないか考えました。風景、人物、抽象、からさらに踏み込み分解すると 風景から伝統的解釈、もう少し主観的なもの、逆によりリアルな風景、人物は、女性的なもの、家族的なもの、旅する人たちなど、抽象画は内面の表現、内面より少し画面的美を追求したもの 風景につながるものなど・・ こんな風にさまざまな作家のまなざしを考えて展示の大図を描きました。

苦労はしましたが 結果 「とても見やすかった。」「普段見過ごしてしまうジャンルをしっかり見ることができた。」などといっていただきました。果たして当初目論んでいたアートの「そのもの」に触れられたのかはまだよく分かりませんが、価値観の多様化のほどはわかっていただけたかもしれません。アンケートの中には「地元でこれだけ多種多様な活動をしているかと思うと勇気づけられた。」というお声が複数あったのには それなりの確かさを私は実感しています。

かつては 1つしかない正解を目指し切磋琢磨するのが芸術という考えがあったかもしれません。しかしいまは “1“以外はすべて不正解ということではなく 正解はいろいろと在るしそれぞれ正解を目指している姿こそが意味ある解なのではないでしょうか。という方向に目を見開いていかなくてはなりません。

それを考えればつい言いたくなる「あれはだめだ!」なんていう言葉には「?」を持つべきでしょう。それより「ああこの視点は新鮮だ!」と。


2020年12月4日金曜日

21th 現代の創造展について(書)

 あと土曜日と日曜日の2日になった現代の創造展、書について私の意見をここまで発信してきたがこの展覧会の構造的な問題に踏み込まないとなかなかすっきりした指摘にはならないと思う。この地域には多分2~300人くらいの書道愛好家がいるだろう。そして半分ぐらいの人が何らかの教室に所属して研鑽に励んでいるのだと思う。お教室は大小数十あって、この展覧会に興味のある先生の教室は10個ぐらいあるのかな。(極めてエグイ言い方だけど)きっとそのグループ間はあまり仲は良くなく この展覧会に出品する作家を選出するにあたって話し合いは行われない、したがって慣習でグループ別に 「あなたのとこは3人、私のとこは5人・・」てな具合に決めて「和」しているのだろう。それからこのグループ(=お教室)での序列の上位者を年ごとに多少入れ替えて出品している。その結果 書の修行を積んでいるが師の教えを出て自分の作品にしている作家はいなくなってしまう。ただうまいだけで 今一つ何かが伝わらないのだ。

組織の悪癖と言わざるを得ない。

下の写真は現代の創造展の書の展示と障害者施設の書の展示です。


ひとつの改革はあるべきなのに組織構造が何層にもフィルターになって言いたいことが伝わらない!

まるでPCR検査が進まなかった医療の構造にも似てはしない?

責任回避の多重構造。

2020年12月2日水曜日

書というジャンルを素人が考える

前のページから地元展覧会(現代の創造展)のなかのジャンル”書”について考えている。私は今年展示係としてジャンルを超えた展示を目指していました。具体的には日本画、洋画、版画、工芸、彫刻、書、コンテンポラリーの7つのジャンルの壁を取り払い 大きなテーマ(①立体具象、②立体抽象系、③平面で家族的人間的なもの、④平面で内面的表現なもの、抽象画的なもの、⑤風景、⑥リアル表現のもの)で括る企画としたのです。そこでうまく読み解けなかったのは書の分野でした。書の中でも作品性が際立つものはこころに入ってくるのですが(写真は素人の私が今現在個人的に惹かれた作品です。)多くは品あって凛としていて素敵だけど、スーッとながれて心にとどまらない。前のページでも触れたけど、東洋文化の「己を空しくして修業し、悟りに至れ」という心が自己表現を否定していて 「この人は何が言いたいの?」という問いには答えてくれない。人間業を超越した書を目指す修行僧のように顔が虚無僧の傘に隠れて見えないのです。一方私たち所謂西洋絵画の概念でスタートした者は人間のしかも自分というものがこう感じこう表現しました。と考えるから今の自分の、例えば「痛み」が表されるのです。書の人は「今の痛み」は乗り越えるべきものなので決して表すべきものではありません。「痛み」は西洋では美に繋がるに対し、東洋では未熟で醜悪となりうる。

しかしここまでの論理は近代までのお話で、私が挑戦した今回の展示でヒントにした新しい考え方でその2つの概念は乗り越えられると思っていました。それはコンテンポラリーの考え方なのですが、西洋の自我を中心に据えた考え方は、最後はエゴの戦いの場となり疲れ切ってしまう。(例えばかつてビートルズがインドの思想に惹かれたように。)だから東洋の「自然に調和して立つ自我」のようなやさしい人間としての自我を目指しその心に新しい美があると考えるのです。この考えは書の世界にもきっと共有できると思っていました。

しかし今現在当展覧会の多くの書作家たちは自分たちの書道の世界から出ることなく、慣習にとらわれ なかなか私たちとさえ向き合ってもらえてないように思ってしまう。

ぎすぎすした自己主張の社会に なにか涼やかさを与えてくれる可能性のあるジャンルだと思うので 今一歩オープンな展開を期待したい。せつに思います!




 

2020年11月30日月曜日

第21回現代の創造展について

 また半年ぶりのブログとなってしまいました。新型コロナでいつものように過ごす年ではなくなり、いろいろなことがさまざまに過ぎていった。首記の展覧会もどうなるかと思っていたが、どうにか開催され、会期もあと数日となった。

夏から始動した我々展示係も当初の計画に対し さほど厳しい批判もなく何とか好評のお言葉を得ることができた。私個人は前例をかなり無視した展開を目論んでいたので、内心かなりほっとしている。というより正直この10日ほどは放心状態とでもいえるほどである。

この展覧会は、日本画、洋画、版画、彫刻、工芸、書、及びコンテンポラリーの7部門を部屋別に展示したりしないで ジャンルをシャッフルしたように 昨年から始めたが、2年目は各作品をどのように部屋別にしていくかが問われた。




部屋は大きく通常の展示室A,Bと講堂、市民ギャラリーとロビーの5空間で なんとかテーマで括れないかと挑んだのですが、書にはうまく向き合えなかったなというのが実感です。

それは臨書という概念にたいして どう受け取ればよいのかさっぱりわからなかったから、、、

展示された臨書の作品は格調高く凛としているのですが どうしてか訴えてくるものがもわーとして受け取れない感じなのです。

「作家の心が伝わらない。」   それでは絵画で育った私には「?!」となってしまうのです。ネットでにわか仕込みで「臨書」を調べると かなり修行的なことが綴られている。昔若いころデッサンに苦労していたころ感じた堂々巡りの論理に似ている。わたしたち絵を学んだ者たちはそこから「自分の表現」という概念を展開したような気がするが、書の先生方はどこに向かわれているのか・・・・首をひねるばかりである。

追記;後日 南信州新聞の記事の「書というやっかいな芸術云々」という見出しがついていたが ちょっと刺激的だなと思っていたら やはり抗議らしきお電話をいただいたと、記者さんから聞いた。

東洋の伝統的芸術思想に神の領域まで修行を高めるというような崇高な思いがあると思う。この考え方は己を空しくして何かを悟ろうとする禅の思想にも通じると思うが、西洋近代の「人間の自我」を肯定して出発している近代文化思想とは相容れないだろう。だから上記の展覧会では  ”やっかい ”という言葉になるのも強ち変な表現ではない。ちょっと前の日本画にもあった問題だ。やはりそこは作家たちは書家だけの論理にこもらないで、この展覧会で議論してほしい。と願うのだが いまは議論が嫌いな人たちばかりで問題は深まらない。





2020年4月24日金曜日

新型コロナ

あれよあれよと身近に押し寄せてきてしまった。中国で大きな病院を突貫工事で作っているのを奇異な目で見ていたのに、今やその必要性を私のような素人でも理解できる。隔離をしないとウイルスが医療の仕組みをむしばんでいくのだ。田舎に暮らす私のような者でもやっぱり心を病むのかもしれない。最初は春先に来る軽い鬱かと思っていたが、先の見えない他人との接触を断った暮らしはぼんやり暗くやるせない。
春にはジョッキング用の新しい靴を買おうと思っていたのに いまはもうどうでもよくなってしまった。
時間の束縛がないから今描いている絵のシリーズをもう少し深く突っ込んで追及してみようと一歩ずつ後ずさりしてみたら知らず知らずにモチベーションが消えてしまった。
散漫な頭で昨日テレビを見ていたら、こんな時こそ「コロナ日記?」つけてみたら・と聞いて 久々にこのページを再開してみました。文は心の整理ができる。

2020年1月16日木曜日

(中南米を考えながら)コンテンポラリーアートについて

自分の高校時代の不勉強を教育システムのせいにするつもりはないが 今更ながら 中南米の近代史を知らなさすぎることは コンテンポラリーアートを名のる者として まことに恥ずかしいと思っている。
(年始から 堅苦しい話で恐縮ですが このごろの若い人のライトな流れは気になっているので敢て・・)
コンテンポラリーアートは 近代の誇り高い発展思想にケチをつける美術なのだから 対象の近代を知らなさすぎるのもチンピラのいちゃもんみたいで情けない。
もちろん近代が獲得した素晴らしい生活の上に立って 「否、このままでは良いわけないよ。」と敢えて言うわけだから 大人の意見として聞いてもらえるにはそれ相応の知見をもっていなければならない。せめて歴史ぐらいは理解していたい。
一昨年メキシコに行って マヤ文明についてほとんど無知だったことに我ながら驚いたが マヤの血を受けたインディオたちが今もなお近代以前の暮らしをしていたことにショックを受けた。
日本にはウォシュレットもあり バスも電車も時間通りだし ネットの買い物は翌日届く。一方滞在したチアパス州ではトイレの水が流れない(時々は流れる) 銀行は長蛇の列 郵便は郵便局さえどこにあるのかわからない。山岳道路は治安も良くないらしい。
そう思えば近代が獲得してきた便利で安全な日本の”今”は尊いものだ。
チアパスの山間部のインディオたちは スペイン語を話さず地べたの暮らしをしている。村でとれたトウモロコシや果物を廃車寸前の乗り合いトラックに載せて町のメルカートで毎朝売るのだ。彼らに笑い顔はなかった。近代の発展から取り残されたのか・・・
 歴史を振り返れば、ヨーロッパの近代は中世の封建秩序から市民層が台頭し資本主義発展させ、新しい秩序を打ち立てた。それは合理的で科学的で今の私たちの暮らしに直結している。だが、そこまでの道のりは流血の歴史でもあった。先頭に立つ欧米は市民革命 独立戦争 統一戦争 そして帝国戦争などなど。日本は明治維新で何とか統一国家を作ったが弱肉強食の帝国競争にまさしく粉砕され その後アメリカ主導の世界で生きていくこととなった。平和は曲がりなりにも七十年余つづき私もそれを享受できている。それがウォシュレットのある暮らしともいえる。
一方 中南米はとても複雑に血を流してきたようだ。ヨーロッパが近代に入ろうとするころスペイン人たちに征服された。メキシコのアステカ文明、中米のマヤ文明、ペルーのインカ帝国 すべて破壊され 奴隷の暮らしに。それから400年もたつとインディオの混血が進んで中南米人としての意識に(最下層のインディオたちは相変わらず被差別的で奴隷のような暮らしであった。)なっていったが 支配層はスペイン人であった。豊かな自然、地下資源は富をもたらすがすべて支配層のものだった。
この辺りからが中南米の近代で混とんとしていてわからないことばかりだ。
豊かな自然の恵みの農業や牧畜、銀や錫などの地下資源、タダ同然のインディオの労働力、それをスペイン系の貴族たちが 次にスペイン系資本家たち その次はメソチーソ(混血の資本家たち) ヨーロッパから民族主義の流れが入ると 民族独立の運動家たち
社会主義者、共産主義者、そこに革命家も軍隊も入り乱れ 混乱状態は収まったようには思えない。敗戦国日本のように アメリカ主導の世界には好んで入る国々は少ないようだ。
さてさて、ながながと書いてきたが、日本の便利社会のなかで私たちは「すべて満足です。なにも望むものはありません」、だなんて決して思ってはいない。南米のウルグアイのムヒカ大統領が数年前に国連で演説したとき、私はとてもうれしかった。便利便利で進んでいけばどこかできっと苦しくなるんだ。それお金が豊かになるということはどこかで貧しくて困る人がいることも事実と思う。
コンテンポラリーアートとはそこのところを大事にしていこうとするアートだと思っている。奇抜でかっこよさだけのアートは飽きるよ。皆さんはどうなんだろう?。


2020年1月6日月曜日

主張のわからない絵なのか?


来週から忙しくなりそう。地元の小品展と銀座のグループ展2つがこの時期に重なってしまった。お屠蘇気分もふりはらって心を構えよう。
 絵画・平面の未来展に出品する作品をここにアップして その制作の内側を文章にしてみました。自分の制作のおもいがどの程度 見る側の人に伝えることができるかを文の力を借りてみました。
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主張のわからない絵なのか?

20201月  林正彦

~ [ I scratched it !] によせて~



あるところまで描いていくと その先が分からなくなる。

絵は部分的に見るところがいっぱいあるので そこを発展させていくことが時として絵の主題から離れていくことがある。

もちろんそんなこと一向に気にせずに描きこんでいく最近の手法もあるが わたしの今進める絵はそうではない。一つの方向性は必要だ。

オールオーバー的な広がりは求めているが、画面の緊張感はなくてはならない。 一点に中央集中するわけではなく 四角い画面が 緊張を保って縦に横に広がっていってほしいのだ。

さて、ここまで書いて気付くのは 決して私の絵が主張がないわけではないようだ。なかなか一文で言えないのは当然だが “モワーッとした満たされない 分析できないような感じ”を平面に留めたいと思い、 絵をスタートしている。

それを 具体的に「壁を引っ掻いた傷」 として 今回 表現してみた。

まずその発想については、、、是か非か 最大の問題だが、今となっては展覧会で問うこととしよう!

 最終段階の今 私は その問いをもう一度逆から省みたとき 自分の加筆の方向がわかるだろうか?

リアルに壁の傷を描写しては 間違ったメッセージになるから 当然違うとは思っている。

日本画家はスケッチの重要さを語るが、(下品な感じになるのか)描写を最終形にはしない。作品化の中で主張にあう取捨選択をするのだ。 方向性は 地べたから上の方(抽象的な世界)へ目指すのである。

 私も似た感じであるが 今回壁の質感と引っ掻き傷の様相はある程度必要だと考えている。ただ、そのある程度がどんなものか? 自分の絵であるか否かに関わってくる問いでもあり考えところだ。

 タイトルは 「I scratched it!」だが 壁の傷は私が引っ掻いた傷ではないと 今 感じている。その壁ができた頃か その壁がたどった時の中でできた傷かはわからないけれど 傷がなにかを留めていて その何かが私の存在というものに共鳴感を呼び起こすのだ。では傷は私なのか?  ・・・わからない。フワーッと消えてしまうような自分を 確かな傷のように 存在させたいのかもしれない。または自分のなかのいくつかの痛みを確かな自分の存在として感じたいのかもしれない。

言葉によって進行形のこの絵を 解析してみたが ここから先は 筆と同じに迷い道になった。

想いと画面が しっくりと重なってくれていればいいのだが 疑問はのこったままだ。

 
見る方々に 意見をゆだねよう・・・

2019年11月5日火曜日

CAF.N(埼玉近代美術館)展は明日から

CAF.N展http://www.caf-n.com/の搬入で、昨日は埼玉までの往復でした。実は私はこの時期の中央道ドライブが好きで毎年解放感をひそかに楽しんでいます。特に素晴らしいのは諏訪あたりから甲府に向かう山々の圧倒的な紅葉だ。
まず諏訪インター周辺は楓の深紅が素晴らしい。赤い絵の具の中を走っているようだ。今年はまだちょっと早いようで緑の葉も少し見受けられた。
次は右手にカラ松の森、金色の森は無限に広がるようだ。
八ヶ岳の量感を左手に感じ進むめば、今度は甲斐駒の山塊がドーンと広がる。全山紅葉である。昔読んだ坂口安吾に「汽車が通り過ぎるとそこには全山燃えるような紅葉であった・・」というような文・・?。なぜか思い出す。文学の秋は門外漢。
薄紫がかったオレンジ山肌がもくもくと頂上のほうに続いている。気が付けば前方中央には逆光の富士が登場。あっぱれ!
この辺りは縄文の文化が栄えた地域だ。この自然の豊かさを思えば、至極当然ともいえよう。
悦に浸っていたら 事故渋滞に巻き込まれてしまった。そうだ、今日は三連休最終日であった。2時間遅れで美術館に到着し、なんとか搬入を終えた。




2019年10月28日月曜日

芽楽(ギャラリー)での個展

名古屋市名東区にあるギャラリー芽楽での個展が昨日で終了しました。とても柔和なオーナーのもとでの展覧会は心落ち着ける展覧会でした。ただ、期間中台風19号襲来による全国的豪雨被害の影響を受け初日のレセプションやチェロコンサートの中止となってしまいました。またその後も20号台風の猛威にさらされてしまい、ゆったりと絵を鑑賞する”秋”ではなかったようで、人の入りは芳しくありませんでした。
ラグビーワールドカップもこの時期予想外に盛り上がり 絵どころではなかったかもしれません。実は私自身もにわかファンで、しかも画廊オーナーの池田氏はYAMAHAラグビー部第一期生、 なかなかなプロの目を(芸術以外にも)お持ちなのです。ちょっとしたときに聞くラグビーの話はうんちくがあり、いろいろ聞かずにはいられませんでした。(特に日本代表がベスト8に勝ち進んだ日や、惜しくも次で負けてしまった日の昼間は試合前なので 私はなんともそわそわ感がたまりませんでした。「仕事ですからきちっとしましょう」といいながら・・・)
そして 初日のチェロ演奏ができなかったので途中で急遽演奏をしてくれた生田さん、ありがとうございました。突然チェロをもって来場し、私たち(オーナーと奥さん)3人だけのためにバッハを弾いてくださいました。王侯貴族にでもなった気分でした。
私の絵の土(中村ブラウン)の絵肌と チェロの持つ複雑で体まで共鳴するようなあの音色は とてもいい関係だと 思うのです。


2019年10月7日月曜日

10年分のブログを久々に・・

ほぼ1年ブログをご無沙汰していました。
Facebookの手軽さと見てくれるお友達の反応でそちらに気持ちが行っていましたが、久々に自分のブログを開いてみて やはりそれなりに物事を考えて書いていたと気づき こちらもちょっとづつ続ける気持ちです。
久々にここを開くきっかけは ある展覧会に自分のプロフィールを提出しなくてはならなくなりましたが ちょっと前のことも記憶があいまいで なかなか書けなかったのです。
過去を振り返るのも少し鬱陶しいと思って自分のブログを改めて読むことなど嫌っていたのですが まあ仕方なくページを振り返ってみれば それなりに考えて書いていて 我ながらこれに意味を感じ取ったのでありますよ!(Facebookでは深まらない何かがあるかな・・)
2009年から書いていたのですが 書いている内容は 当時地元飯田での美術界の権威主義に対し何とかしたいということが多かったですね。その後「現代の創造展」(飯田市美術博物館と美術団体、美術家の会の共催)にコンテンポラリー部門ができて知らぬ間に抵抗勢力(?)がいなくなってしまった。そして若い人たちはそんなことがあったなんて感じることもなく なにやら独特な作品を発表しだした。・・これも年を取ったということか。
それから 時々気にしていたのが 原発問題だ。深い考察があるわけでもないが、私たちが育ってきた時代と時を同じくして 原子力発電は展開されていった。一時は電気の必要性に怖いけど 無暗に反対するのもどうかなーと思うこともあった。(バブルのころか・・)しかし福島であんな惨事が起こり 多くの人の故郷が消失した。やはり無理なんだと思った。廃棄物だって行き場がないではないか。なるべくはやくなくすべきと考えるようになった。そうしたら今度は関西電力の不祥事だ!一番慎重に考えたいときに 金で事を進めていってしまう。そして合意なきgo! である。誰がその後を責任取るのか?どこか第二次大戦突入に似てはしないだろうか?
僕たちの世代は原子力と並走しているのだ。考えないわけにはいかない。
故郷とは母と同意語なところがある。「お前がどうあれ 私はおまえを信じるよ」といった響きだ。それをいつの間にか奪い 責任者が責任を取らないなんて ・・・否。
長々と書き始めましたが、本日はここまで。


2019年4月1日月曜日

抽象と具象

ひょんなことからパソコンのデータを消失してしまって、しばらくこのページに戻ってこられませんでした。
もうブログもいいかとも考えたのですが、やっぱり たまには文書で頭の中を整理したくなっても来るので・・


2月に赤津侃氏企画の「個の屹立展」9thに続いて4月の10thにもご依頼をいただいたので 春の華やかなところに行きたくなり 本日作品を梱包した。





今回は抽象性がやや希薄な作品になった。なんかこの頃 抽象的な世界に入っていくも


どうも進展がそこからないのだ!もしくは深まりがない!もっと端的にいうと“飽き”・・?といった不満感が漂うのかな。
〈写真左は第9回展の「筋」で右は第10回展の「崖と静物」少しばかり具象性に近づけた作品です。〉
絵は ある意味スイッチを入れてみないと 見えるものが見えてこない。そのスイッチは自分の意識がコントロールしているはずだが 見ると同時にスイッチの入る絵がある、それは感動的な他人の絵に出合った時だったりする。自分の絵ではしばらくぶりに見るときくらいしか起きないかな。
マークロスコを見ると時間を忘れる、しかし全然とっかかりなくスルーしてしまう作家もある。その差には作品の質(クオリティ)の問題もあるが見る側の好みや鑑賞のこころ具合も大きい。
たとえば龍安寺の石庭に宇宙を感じるには 心の余裕と自由な発想のあそびがいる。ところがトイレに行きたかったり 周りがうるさかったり かえりの旅が心配だったりすれば宇宙どころじゃあない。見えるものも見えてこないだろう。
どうも いま(自分だけの問題なのか)ひろがりのある宇宙を感じにくい。
卑近な現実に興味があって 未来とか宇宙とか形而上の想像力が貧弱になっているのだろうか・・・


2018年12月21日金曜日

1か月のメキシコ滞在

メキシコは古代からの文化が地平で力強く流れ、そこへスペイン文化が征服という形で入った。その結果といっていいのか 他の南米諸国がそうであるように”混沌”があるのかもしれない。(日本人の私にはそう感じてしまうが この言葉が適当なのかは迷う・・)サンクリストバルに入ってすぐに、メルカートが好きで2~3日通って思ったが、多くの人たちは先住民系で肌の色は濃く小柄で日本人にも似ている。働く人々である。表情は?というとそれはなぜかない。楽しそうに笑ったり冗談を言ったりする場面には出会わなかった。街にはスペイン系の人たちもホテルとか、お店でまじめに働いているが なんかかれらとは雰囲気は違う。言葉もマヤ語系の言葉を使う場面があるようで別世界のようだ。
学校もすべての子供が行っているわけではないようだ。断絶には文化的壁だけでなく貧困問題もあるのだろう。
人々の立つ位置が、ルーツから本当にさまざまで、日本育ちの私には「一つの国として まとまっていけるのだろうか?」と思ってしまう。”多様性”という言葉を日本ではこの頃よく聞くが この国では あまりに底知れぬ多様性に 他を理解しようだなんて考える余裕なんてないのかもしれない。
ただ、ヨーロッパ系の上流社会がここでは生きていて 問題を乗り越えようと手を差し伸べてもいる。私が花藤氏に連れられて行ったチャリティーディナーはとても華やかで盛大(500人ほどの紳士淑女)、数千万円の寄付を一夜で集めたようだ!

花藤氏の先住民をテーマにした絵が大いに人気なのは前の項でも書いた。余談だが私の絵もこの夜買い手がついて、展覧会にメキシコに来た甲斐があったとささやかに祝った。


2018年12月19日水曜日

画家 Hanafuji

ラカンドンの村に着くと花藤氏はラカンドン族の衣装になった。ちょっと見 日本人とは思えない。過去にここでマリオたちと生活を共にしたらしい。道理でマリオのことを息子同然だと言っていたし、彼の家族も花藤氏のことを親戚のおじさんのように接している。深いつながりを感じる。
さて、彼はメキシコに渡ってからずーっと先住民の暮らしに惹かれそれをテーマに50年描いてきた。ここ15年くらいはサンクリストバルに移りより先住民と近くに暮らしその追求を深めている。それは理解者の広がりにもつながり今ではメキシコで名の通った作家だ。
その成功は多くの苦労のうえに咲いた花だと彼も語っていたが、彼の長男タロウ氏も異口同音であった。情熱と夢で突っ走った時代から50年、そこには芸術家一家の苦節があるのだ。
その成功のおかげで私などもこうしてメキシコの地で温かい歓迎を受けて 個展をすることができる。
写真は花藤氏の大作で 先住民の伝統舞踏の絵で征服者スペイン兵の行進だ。サングラスをかけて踊るのは地の顔を隠すためで、そこには被征服者の屈折した反抗の心が隠されている。

2018年12月18日火曜日

ラカンドン族のマリオ氏

かすかなかびの匂いがして そして川の音で目が覚めた。
そうだ、夕べは夜遅くマリオの経営するバンガロウに泊めていただいたのだった。
パレンケの遺跡を見学してから 花藤氏の旧友であり マヤの血を受け継ぐラカンドン族のマリオ氏が車で迎えに来てくれたのだ。
これからグアテマラ国境地帯にあるラカンドンの村にむかうのだ。緩やかな下り坂の道は徐々に森の中に入って行き 街灯などない山道はひたすら南にむかう。おおきなオレンジ色の満月が木々の間から煌々と でも怪しく輝き始めていた。時々おおきな連結のトラックがすれ違うだけの闇の道が続く。
メキシコの道にはトッペというおかしな出っ張りが至る所にある。高速で走り続けられないように設置されていて、街道沿いの村々や学校などの前でどうしても減速させられてしまう。どんな車でもゴットンゴットン どっこいしょ!と乗り越えていかざるを得ないのだ。そしてそこには案の定物売りがいたり 物もらいがいたりで・・・急に闇から手が出てきたりすると慣れない私などびっくりしてしまう。
ジャングルの道ではこんなことにも遭遇した。牛が数頭道端に転がっていたのだ!足が上を向いていたから死んでいたのだと思う。暗かったし、そんなことありうるとも思わないから とうとう幻覚に落ちたか自分を疑ったが、前席の花藤氏に声をかけると「グアテマラからの牛を運ぶトラック街道だから 事故った車が牛を放り出して行ってしまったのだろう」とのことであった!・・・
日本での常識が通じない1日だった。

2018年12月17日月曜日

マヤの遺跡パレンケを訪ねる

サンクリに着いてから間も無く花藤氏はマヤの遺跡パレンケに連れていくと言ってくれていた。「マヤ文明」・・自分がさして知識のないことに気づく!・・
メキシコの南部密林地帯に西暦300年ころから900年ころまで栄えた文明でピラミッドなどの神殿遺跡が20世紀になってから発見されているらしい。なんともロマンを掻き立てる遺跡なのだ。メキシコの歴史はそんなに簡単に語れないことは承知の上でガイドブックを拾い読みすると オルメカ文明(紀元前12世紀ころから)がメキシコ湾に栄え 次に中央高原にティオティワカン、トルティカ文明、アステカ文明(13世紀)が栄える。同時にユカタン半島ではマヤ文明が栄える。それが1500年にはスペインに征服され、キリスト教化されていった。
花藤氏の絵のテーマの一つに「マヤの村の舞踏」がある。それにはスペイン人たちに征服されていったマヤの人々の複雑な気持ちがその踊りには表現されているという。
メキシコ滞在も後半にさしかかる頃、いよいよパレンケ行きとなった。実は危険な旅なんだ。サンクリからは乗合のタクシーで3000m級の山地を超えて、さらにそのタクシーを乗り換えてまた山の中を走り やっとたどり着くというものであった。山の中の道で倒木で道を塞がれれば、追剥ぎだってありうるのだ。花藤氏も十分わかっている危険なので、財布は持つな、小銭だけポケットに。あとは胴巻にでも隠してとの指示だった。朝9時頃出て、パレンケつついたのは2時過ぎであった。絶対に暗くなっての移動は不可で さすがに着いたときは安心で汗だくだった。
パレンケはピラミッドや神殿も美しく大きくて そして広く 観光客でにぎわっていた。(近くには飛行場があるのだそうで 何となく納得。)
木陰で一息入れると花藤氏は初めてここを訪れた時のことを話してくれた。
それは50年近くも昔のことで、この遺跡が発見されてさして時がたってないころのこと。今のように観光のための整備はなく、木々に覆われたままであったそうだ。そこに歩き始めたばかりの長女を抱きかかえ家族3人で 入ってきたそうである。メキシコシティから1か月かけての車の旅だったそうだ。・・・
若い芸術家とその家族の今思えば無謀とも思えるような旅、その夢、見なければならないと思うこころ・・・聞いている内になんとも言えぬ熱いものを感じずにはいられなかった。今この隣にいる静かな芸術家の半生が ひと際激しいものであったことを感じずにはいられなかった。



2018年12月14日金曜日

San Cristobal de Las Casas

メキシコのチアパス州の街サンクリストバルにたどり着いたのは先月の1日で「死者の日」という祭日であった。骸骨やら 血塗られた花嫁やら奇抜な恰好の若者たちをみた。日本で見てきたハロウィンのようなものかと思ったら、(知人に聞くと)むしろ日本のお盆のような行事で、家族で墓参りをし先祖を近くに感じるための祝日という。
さて、私は空港からチアパス芸術交流会の花藤氏に迎えてもらい、サンクリ(サンクリストバル デラ カサス)の下宿に落ち着くことができた。
今回は 数年前から交流があるチアパス芸術交流会のお力添えで こちらの核となっている画家花藤氏に段取りをしていただいた個展開催が大目的である。
作品を質量ともに個展のレベルで運搬することは最大の難問であった。
2~3年かけてどういう形の絵だったら持っていけるのか試行錯誤してきたのだけれど、トランクにたたんで入れて持っていくのが一番可能かと感じ実行したのだった。ただ作品のイタミとかは最後まで心配の種だった。
幸い向こうの会場で広げたとき 然したるダメージはなくほんとうによかったと思いました。『これで個展は開ける!』と感じ
心底安心したものでした。
会期:11月15日~12月8日
会場:サンドミンゴ教会にあるロスアルトス博物館の回廊にて



2018年10月25日木曜日

Finalmente ire a Mexico!

昨年来の計画が いよいよ実現しそうな時が来た。メキシコで個展を開催しようと思い立ち、さまざまな人たちに応援され 励まされ 一年が過ぎた。
昨年5月の横浜でのメキシコ交流展で 初めて在メキシコ45年の日本人作家Akio花藤さんに出合い そしてその人柄に触れて やっとこの個展に踏み切ることができたのだ。
絵の運送方法やら、向こうでの会場準備、招待について等々・・一人ではとても考えれないことだった。
さて その後地元では 多くの人に応援していただき資金調達ができたのは ここで触れておきたいし 深く礼を言いたい。
春の南無展(立石のギャラリー南無)に始まり、夏のKURANO 吾亦紅 の会場には
中学の同級生や 高校の同級生が訪れて 買ってくれたのだ。本当に絵描きには力になる現実だ!
正直 こんなに大ぶろしきを広げず そっと行った方が気が楽だなんて思った時期もあったが それは大きな間違いだった。友に助けられ その覚悟を語り 責任のようなものを感じつつ また助けてもらう。そこに意味があったような気がする一年であった。
ありがとう、玉置君 藤沢さん!
 左の写真は 4年前チアパス芸術交流会の方たちが開催した「和の心とかたち」展のレセプションの写真ですが、この時は我が家はまだ受験生を抱えていたので 絵のみの参加となりました。もう一枚の写真はオープニングセレモニーで、バックに飾られていた絵は私の「芥子の花」と 達さんの絵でした。
この交流会のメンバーには強くメキシコ行を勧めていただき、そして委員会長の赤津さんをはじめ渡邊さんや多くのメンバーたちには最後まで支えてもらいありがたかった。
では、11月1日成田を出発します。Me ire!





2018年9月27日木曜日

藤田嗣治展をみる

夏の個展から怒涛の1か月が過ぎ、(このところ降雨続きで、稲刈り 脱穀に進めない。)小休止の今 友人から藤田嗣治の個展は見ておいたほうがいい由言われ 東京へ出かけた。
一番の理由は 私の藤田観について 日本美術界からのネガティブ感が実は摺りこまれているのではないかとその友人に言われたから。
「器用で処世術に長けた調子者の芸術家」というのは 実際どうだったのだろうか?
彼は 軍医の次男として生まれ、東京美術学校(芸大)で学んだ後、船でパリに向かった。1913年から33年ころまでパリで活動。時代は第1次大戦、そして狂乱の景気へて、大恐慌。パリのアートもキュウビズム、ダダイズム、機能主義などなどが現れ、エコールドパリ最盛期であった。一般的にこの時 藤田はおかっぱ頭で毎夜のバカ騒ぎ会に現れたという。“お調子者” というあだ名で呼ばれていたそうである。その甲斐あってかパリの美術界で有名になって行くことができたそうだ。
流れはそうだが、その間の彼の作品を見ると そんな上っ調子な評は 当たらないような気がしてきた。地道に絵を描いていた感じが、パリ初期の風景画に感じる。例えばグレーのトーンの繊細さ、臆病にも感じるくらいだ。
彼が言っていた言葉、「オリジナルであればあるほどパリの人は好んでくれる」と「当時一般に主流であった印象派的な画法をいかに捨て去るべきか」は誠に的を得ていると 私も感じたことだ。(藤田が言ってから50年も後のことだ。)未だにその脱却に時を擁している日本美術界はいったいどうなの?と感じてしまう。
 白と黒 繊細なモノトーンがなくなってしまったのは ナチの台頭でパリを抜け出すころだ。なぜか派手な色の絵になっていまい こころに余裕がない感じだ。
南米を経てから日本に戻ったが あまり魅力的な絵は残さなかった。戦争画などは色の魅力は全くないと言っていい。
展示では ベージュトーンの中にメキシコの原住人らしき人を描いたシリーズはなんか次の展開を感じさせたが。
 最後にやっぱりいいなと思ったのは、戦後再度パリに渡ろうとして、入国許可を待つ数か月間 滞在していたニューヨークで描いたのものであった。有名なカフェで手紙を書く女である。
彼は やはり旅人としての自由と所在なさが 絵の原点だったのではないか。
青春時代は バカもやるが純粋だ。モディリアーニたちとふざけあったり競争心を燃やしたり、絵で食べていくことを必死に考え 孤独に耐えそして恋愛もして・・・いい時代によく生きたと思ってしまう。

2018年8月25日土曜日

第一ラウンド、kurano展



怒涛の5日間、kuranoでの展示が終了しました。素晴らしい会場で私の絵にうまくマッチしてくれたようだ。150人を超える来場者があったことは、飯田の地では珍しいことだとおもう。さらに、高校の同期の諸氏がつぎつぎに訪れてくれ 応援の声をかけてくれたことについては、かつて不義理を重ねていた身にとりなんとも肩身の狭い思いも感じつつ、広い心のみんなに感謝を心底したい思いだ。


2018年8月2日木曜日

南信州新聞に記事


いよいよ10日ほどで個展が始まる。この酷暑を言い訳にのらりくらりとしていたが、もう動かないとやばい。
それにつけても
友人たちが応援してくれるのはうれしい。一昔前は 「一人でがんばるんだ」と息巻いていたが やっとみんなの応援がわかるようになった。周りが見えてきたのだろう。
家族や隣人そして友人たち・・・ あの人もこの人も顔が浮かぶ。
新聞記事を出してくれた友がいる。もう20年余り前から中村壁を一緒に研究したM氏、この度の経緯を細かく書いてくれた。(汚い私のアトリエさえ見に来てくれた!)
日本のしかも45年も前 油絵(=西洋美術)を学び始めた私が 日本を考え ヨーロッパを見、そして再び日本を意識して 絵を描いてきたが そことは明らかに異なる根を持つ美術に接したのは たしか二十数年まえ 一人でニューヨーク旅行をし メトロポリタン美術館で古代マヤの彫刻を見た時だった。
以来”?”をどこかに抱えて美術活動をしてきが、いよいよこの秋 そこに行って それを感じることができるはずだ。
あの底知れぬエネルギーとおそらく優しさとは異なる厳しさ、迫力。
そこに近づくための 気持ちを高める個展になるだろうか。しなくてはいけない。