2018年9月27日木曜日

藤田嗣治展をみる

夏の個展から怒涛の1か月が過ぎ、(このところ降雨続きで、稲刈り 脱穀に進めない。)小休止の今 友人から藤田嗣治の個展は見ておいたほうがいい由言われ 東京へ出かけた。
一番の理由は 私の藤田観について 日本美術界からのネガティブ感が実は摺りこまれているのではないかとその友人に言われたから。
「器用で処世術に長けた調子者の芸術家」というのは 実際どうだったのだろうか?
彼は 軍医の次男として生まれ、東京美術学校(芸大)で学んだ後、船でパリに向かった。1913年から33年ころまでパリで活動。時代は第1次大戦、そして狂乱の景気へて、大恐慌。パリのアートもキュウビズム、ダダイズム、機能主義などなどが現れ、エコールドパリ最盛期であった。一般的にこの時 藤田はおかっぱ頭で毎夜のバカ騒ぎ会に現れたという。“お調子者” というあだ名で呼ばれていたそうである。その甲斐あってかパリの美術界で有名になって行くことができたそうだ。
流れはそうだが、その間の彼の作品を見ると そんな上っ調子な評は 当たらないような気がしてきた。地道に絵を描いていた感じが、パリ初期の風景画に感じる。例えばグレーのトーンの繊細さ、臆病にも感じるくらいだ。
彼が言っていた言葉、「オリジナルであればあるほどパリの人は好んでくれる」と「当時一般に主流であった印象派的な画法をいかに捨て去るべきか」は誠に的を得ていると 私も感じたことだ。(藤田が言ってから50年も後のことだ。)未だにその脱却に時を擁している日本美術界はいったいどうなの?と感じてしまう。
 白と黒 繊細なモノトーンがなくなってしまったのは ナチの台頭でパリを抜け出すころだ。なぜか派手な色の絵になっていまい こころに余裕がない感じだ。
南米を経てから日本に戻ったが あまり魅力的な絵は残さなかった。戦争画などは色の魅力は全くないと言っていい。
展示では ベージュトーンの中にメキシコの原住人らしき人を描いたシリーズはなんか次の展開を感じさせたが。
 最後にやっぱりいいなと思ったのは、戦後再度パリに渡ろうとして、入国許可を待つ数か月間 滞在していたニューヨークで描いたのものであった。有名なカフェで手紙を書く女である。
彼は やはり旅人としての自由と所在なさが 絵の原点だったのではないか。
青春時代は バカもやるが純粋だ。モディリアーニたちとふざけあったり競争心を燃やしたり、絵で食べていくことを必死に考え 孤独に耐えそして恋愛もして・・・いい時代によく生きたと思ってしまう。