2020年1月16日木曜日

(中南米を考えながら)コンテンポラリーアートについて

自分の高校時代の不勉強を教育システムのせいにするつもりはないが 今更ながら 中南米の近代史を知らなさすぎることは コンテンポラリーアートを名のる者として まことに恥ずかしいと思っている。
(年始から 堅苦しい話で恐縮ですが このごろの若い人のライトな流れは気になっているので敢て・・)
コンテンポラリーアートは 近代の誇り高い発展思想にケチをつける美術なのだから 対象の近代を知らなさすぎるのもチンピラのいちゃもんみたいで情けない。
もちろん近代が獲得した素晴らしい生活の上に立って 「否、このままでは良いわけないよ。」と敢えて言うわけだから 大人の意見として聞いてもらえるにはそれ相応の知見をもっていなければならない。せめて歴史ぐらいは理解していたい。
一昨年メキシコに行って マヤ文明についてほとんど無知だったことに我ながら驚いたが マヤの血を受けたインディオたちが今もなお近代以前の暮らしをしていたことにショックを受けた。
日本にはウォシュレットもあり バスも電車も時間通りだし ネットの買い物は翌日届く。一方滞在したチアパス州ではトイレの水が流れない(時々は流れる) 銀行は長蛇の列 郵便は郵便局さえどこにあるのかわからない。山岳道路は治安も良くないらしい。
そう思えば近代が獲得してきた便利で安全な日本の”今”は尊いものだ。
チアパスの山間部のインディオたちは スペイン語を話さず地べたの暮らしをしている。村でとれたトウモロコシや果物を廃車寸前の乗り合いトラックに載せて町のメルカートで毎朝売るのだ。彼らに笑い顔はなかった。近代の発展から取り残されたのか・・・
 歴史を振り返れば、ヨーロッパの近代は中世の封建秩序から市民層が台頭し資本主義発展させ、新しい秩序を打ち立てた。それは合理的で科学的で今の私たちの暮らしに直結している。だが、そこまでの道のりは流血の歴史でもあった。先頭に立つ欧米は市民革命 独立戦争 統一戦争 そして帝国戦争などなど。日本は明治維新で何とか統一国家を作ったが弱肉強食の帝国競争にまさしく粉砕され その後アメリカ主導の世界で生きていくこととなった。平和は曲がりなりにも七十年余つづき私もそれを享受できている。それがウォシュレットのある暮らしともいえる。
一方 中南米はとても複雑に血を流してきたようだ。ヨーロッパが近代に入ろうとするころスペイン人たちに征服された。メキシコのアステカ文明、中米のマヤ文明、ペルーのインカ帝国 すべて破壊され 奴隷の暮らしに。それから400年もたつとインディオの混血が進んで中南米人としての意識に(最下層のインディオたちは相変わらず被差別的で奴隷のような暮らしであった。)なっていったが 支配層はスペイン人であった。豊かな自然、地下資源は富をもたらすがすべて支配層のものだった。
この辺りからが中南米の近代で混とんとしていてわからないことばかりだ。
豊かな自然の恵みの農業や牧畜、銀や錫などの地下資源、タダ同然のインディオの労働力、それをスペイン系の貴族たちが 次にスペイン系資本家たち その次はメソチーソ(混血の資本家たち) ヨーロッパから民族主義の流れが入ると 民族独立の運動家たち
社会主義者、共産主義者、そこに革命家も軍隊も入り乱れ 混乱状態は収まったようには思えない。敗戦国日本のように アメリカ主導の世界には好んで入る国々は少ないようだ。
さてさて、ながながと書いてきたが、日本の便利社会のなかで私たちは「すべて満足です。なにも望むものはありません」、だなんて決して思ってはいない。南米のウルグアイのムヒカ大統領が数年前に国連で演説したとき、私はとてもうれしかった。便利便利で進んでいけばどこかできっと苦しくなるんだ。それお金が豊かになるということはどこかで貧しくて困る人がいることも事実と思う。
コンテンポラリーアートとはそこのところを大事にしていこうとするアートだと思っている。奇抜でかっこよさだけのアートは飽きるよ。皆さんはどうなんだろう?。


2020年1月6日月曜日

主張のわからない絵なのか?


来週から忙しくなりそう。地元の小品展と銀座のグループ展2つがこの時期に重なってしまった。お屠蘇気分もふりはらって心を構えよう。
 絵画・平面の未来展に出品する作品をここにアップして その制作の内側を文章にしてみました。自分の制作のおもいがどの程度 見る側の人に伝えることができるかを文の力を借りてみました。
ーーー
主張のわからない絵なのか?

20201月  林正彦

~ [ I scratched it !] によせて~



あるところまで描いていくと その先が分からなくなる。

絵は部分的に見るところがいっぱいあるので そこを発展させていくことが時として絵の主題から離れていくことがある。

もちろんそんなこと一向に気にせずに描きこんでいく最近の手法もあるが わたしの今進める絵はそうではない。一つの方向性は必要だ。

オールオーバー的な広がりは求めているが、画面の緊張感はなくてはならない。 一点に中央集中するわけではなく 四角い画面が 緊張を保って縦に横に広がっていってほしいのだ。

さて、ここまで書いて気付くのは 決して私の絵が主張がないわけではないようだ。なかなか一文で言えないのは当然だが “モワーッとした満たされない 分析できないような感じ”を平面に留めたいと思い、 絵をスタートしている。

それを 具体的に「壁を引っ掻いた傷」 として 今回 表現してみた。

まずその発想については、、、是か非か 最大の問題だが、今となっては展覧会で問うこととしよう!

 最終段階の今 私は その問いをもう一度逆から省みたとき 自分の加筆の方向がわかるだろうか?

リアルに壁の傷を描写しては 間違ったメッセージになるから 当然違うとは思っている。

日本画家はスケッチの重要さを語るが、(下品な感じになるのか)描写を最終形にはしない。作品化の中で主張にあう取捨選択をするのだ。 方向性は 地べたから上の方(抽象的な世界)へ目指すのである。

 私も似た感じであるが 今回壁の質感と引っ掻き傷の様相はある程度必要だと考えている。ただ、そのある程度がどんなものか? 自分の絵であるか否かに関わってくる問いでもあり考えところだ。

 タイトルは 「I scratched it!」だが 壁の傷は私が引っ掻いた傷ではないと 今 感じている。その壁ができた頃か その壁がたどった時の中でできた傷かはわからないけれど 傷がなにかを留めていて その何かが私の存在というものに共鳴感を呼び起こすのだ。では傷は私なのか?  ・・・わからない。フワーッと消えてしまうような自分を 確かな傷のように 存在させたいのかもしれない。または自分のなかのいくつかの痛みを確かな自分の存在として感じたいのかもしれない。

言葉によって進行形のこの絵を 解析してみたが ここから先は 筆と同じに迷い道になった。

想いと画面が しっくりと重なってくれていればいいのだが 疑問はのこったままだ。

 
見る方々に 意見をゆだねよう・・・