2018年12月21日金曜日

1か月のメキシコ滞在

メキシコは古代からの文化が地平で力強く流れ、そこへスペイン文化が征服という形で入った。その結果といっていいのか 他の南米諸国がそうであるように”混沌”があるのかもしれない。(日本人の私にはそう感じてしまうが この言葉が適当なのかは迷う・・)サンクリストバルに入ってすぐに、メルカートが好きで2~3日通って思ったが、多くの人たちは先住民系で肌の色は濃く小柄で日本人にも似ている。働く人々である。表情は?というとそれはなぜかない。楽しそうに笑ったり冗談を言ったりする場面には出会わなかった。街にはスペイン系の人たちもホテルとか、お店でまじめに働いているが なんかかれらとは雰囲気は違う。言葉もマヤ語系の言葉を使う場面があるようで別世界のようだ。
学校もすべての子供が行っているわけではないようだ。断絶には文化的壁だけでなく貧困問題もあるのだろう。
人々の立つ位置が、ルーツから本当にさまざまで、日本育ちの私には「一つの国として まとまっていけるのだろうか?」と思ってしまう。”多様性”という言葉を日本ではこの頃よく聞くが この国では あまりに底知れぬ多様性に 他を理解しようだなんて考える余裕なんてないのかもしれない。
ただ、ヨーロッパ系の上流社会がここでは生きていて 問題を乗り越えようと手を差し伸べてもいる。私が花藤氏に連れられて行ったチャリティーディナーはとても華やかで盛大(500人ほどの紳士淑女)、数千万円の寄付を一夜で集めたようだ!

花藤氏の先住民をテーマにした絵が大いに人気なのは前の項でも書いた。余談だが私の絵もこの夜買い手がついて、展覧会にメキシコに来た甲斐があったとささやかに祝った。


2018年12月19日水曜日

画家 Hanafuji

ラカンドンの村に着くと花藤氏はラカンドン族の衣装になった。ちょっと見 日本人とは思えない。過去にここでマリオたちと生活を共にしたらしい。道理でマリオのことを息子同然だと言っていたし、彼の家族も花藤氏のことを親戚のおじさんのように接している。深いつながりを感じる。
さて、彼はメキシコに渡ってからずーっと先住民の暮らしに惹かれそれをテーマに50年描いてきた。ここ15年くらいはサンクリストバルに移りより先住民と近くに暮らしその追求を深めている。それは理解者の広がりにもつながり今ではメキシコで名の通った作家だ。
その成功は多くの苦労のうえに咲いた花だと彼も語っていたが、彼の長男タロウ氏も異口同音であった。情熱と夢で突っ走った時代から50年、そこには芸術家一家の苦節があるのだ。
その成功のおかげで私などもこうしてメキシコの地で温かい歓迎を受けて 個展をすることができる。
写真は花藤氏の大作で 先住民の伝統舞踏の絵で征服者スペイン兵の行進だ。サングラスをかけて踊るのは地の顔を隠すためで、そこには被征服者の屈折した反抗の心が隠されている。

2018年12月18日火曜日

ラカンドン族のマリオ氏

かすかなかびの匂いがして そして川の音で目が覚めた。
そうだ、夕べは夜遅くマリオの経営するバンガロウに泊めていただいたのだった。
パレンケの遺跡を見学してから 花藤氏の旧友であり マヤの血を受け継ぐラカンドン族のマリオ氏が車で迎えに来てくれたのだ。
これからグアテマラ国境地帯にあるラカンドンの村にむかうのだ。緩やかな下り坂の道は徐々に森の中に入って行き 街灯などない山道はひたすら南にむかう。おおきなオレンジ色の満月が木々の間から煌々と でも怪しく輝き始めていた。時々おおきな連結のトラックがすれ違うだけの闇の道が続く。
メキシコの道にはトッペというおかしな出っ張りが至る所にある。高速で走り続けられないように設置されていて、街道沿いの村々や学校などの前でどうしても減速させられてしまう。どんな車でもゴットンゴットン どっこいしょ!と乗り越えていかざるを得ないのだ。そしてそこには案の定物売りがいたり 物もらいがいたりで・・・急に闇から手が出てきたりすると慣れない私などびっくりしてしまう。
ジャングルの道ではこんなことにも遭遇した。牛が数頭道端に転がっていたのだ!足が上を向いていたから死んでいたのだと思う。暗かったし、そんなことありうるとも思わないから とうとう幻覚に落ちたか自分を疑ったが、前席の花藤氏に声をかけると「グアテマラからの牛を運ぶトラック街道だから 事故った車が牛を放り出して行ってしまったのだろう」とのことであった!・・・
日本での常識が通じない1日だった。

2018年12月17日月曜日

マヤの遺跡パレンケを訪ねる

サンクリに着いてから間も無く花藤氏はマヤの遺跡パレンケに連れていくと言ってくれていた。「マヤ文明」・・自分がさして知識のないことに気づく!・・
メキシコの南部密林地帯に西暦300年ころから900年ころまで栄えた文明でピラミッドなどの神殿遺跡が20世紀になってから発見されているらしい。なんともロマンを掻き立てる遺跡なのだ。メキシコの歴史はそんなに簡単に語れないことは承知の上でガイドブックを拾い読みすると オルメカ文明(紀元前12世紀ころから)がメキシコ湾に栄え 次に中央高原にティオティワカン、トルティカ文明、アステカ文明(13世紀)が栄える。同時にユカタン半島ではマヤ文明が栄える。それが1500年にはスペインに征服され、キリスト教化されていった。
花藤氏の絵のテーマの一つに「マヤの村の舞踏」がある。それにはスペイン人たちに征服されていったマヤの人々の複雑な気持ちがその踊りには表現されているという。
メキシコ滞在も後半にさしかかる頃、いよいよパレンケ行きとなった。実は危険な旅なんだ。サンクリからは乗合のタクシーで3000m級の山地を超えて、さらにそのタクシーを乗り換えてまた山の中を走り やっとたどり着くというものであった。山の中の道で倒木で道を塞がれれば、追剥ぎだってありうるのだ。花藤氏も十分わかっている危険なので、財布は持つな、小銭だけポケットに。あとは胴巻にでも隠してとの指示だった。朝9時頃出て、パレンケつついたのは2時過ぎであった。絶対に暗くなっての移動は不可で さすがに着いたときは安心で汗だくだった。
パレンケはピラミッドや神殿も美しく大きくて そして広く 観光客でにぎわっていた。(近くには飛行場があるのだそうで 何となく納得。)
木陰で一息入れると花藤氏は初めてここを訪れた時のことを話してくれた。
それは50年近くも昔のことで、この遺跡が発見されてさして時がたってないころのこと。今のように観光のための整備はなく、木々に覆われたままであったそうだ。そこに歩き始めたばかりの長女を抱きかかえ家族3人で 入ってきたそうである。メキシコシティから1か月かけての車の旅だったそうだ。・・・
若い芸術家とその家族の今思えば無謀とも思えるような旅、その夢、見なければならないと思うこころ・・・聞いている内になんとも言えぬ熱いものを感じずにはいられなかった。今この隣にいる静かな芸術家の半生が ひと際激しいものであったことを感じずにはいられなかった。



2018年12月14日金曜日

San Cristobal de Las Casas

メキシコのチアパス州の街サンクリストバルにたどり着いたのは先月の1日で「死者の日」という祭日であった。骸骨やら 血塗られた花嫁やら奇抜な恰好の若者たちをみた。日本で見てきたハロウィンのようなものかと思ったら、(知人に聞くと)むしろ日本のお盆のような行事で、家族で墓参りをし先祖を近くに感じるための祝日という。
さて、私は空港からチアパス芸術交流会の花藤氏に迎えてもらい、サンクリ(サンクリストバル デラ カサス)の下宿に落ち着くことができた。
今回は 数年前から交流があるチアパス芸術交流会のお力添えで こちらの核となっている画家花藤氏に段取りをしていただいた個展開催が大目的である。
作品を質量ともに個展のレベルで運搬することは最大の難問であった。
2~3年かけてどういう形の絵だったら持っていけるのか試行錯誤してきたのだけれど、トランクにたたんで入れて持っていくのが一番可能かと感じ実行したのだった。ただ作品のイタミとかは最後まで心配の種だった。
幸い向こうの会場で広げたとき 然したるダメージはなくほんとうによかったと思いました。『これで個展は開ける!』と感じ
心底安心したものでした。
会期:11月15日~12月8日
会場:サンドミンゴ教会にあるロスアルトス博物館の回廊にて