2018年12月21日金曜日

1か月のメキシコ滞在

メキシコは古代からの文化が地平で力強く流れ、そこへスペイン文化が征服という形で入った。その結果といっていいのか 他の南米諸国がそうであるように”混沌”があるのかもしれない。(日本人の私にはそう感じてしまうが この言葉が適当なのかは迷う・・)サンクリストバルに入ってすぐに、メルカートが好きで2~3日通って思ったが、多くの人たちは先住民系で肌の色は濃く小柄で日本人にも似ている。働く人々である。表情は?というとそれはなぜかない。楽しそうに笑ったり冗談を言ったりする場面には出会わなかった。街にはスペイン系の人たちもホテルとか、お店でまじめに働いているが なんかかれらとは雰囲気は違う。言葉もマヤ語系の言葉を使う場面があるようで別世界のようだ。
学校もすべての子供が行っているわけではないようだ。断絶には文化的壁だけでなく貧困問題もあるのだろう。
人々の立つ位置が、ルーツから本当にさまざまで、日本育ちの私には「一つの国として まとまっていけるのだろうか?」と思ってしまう。”多様性”という言葉を日本ではこの頃よく聞くが この国では あまりに底知れぬ多様性に 他を理解しようだなんて考える余裕なんてないのかもしれない。
ただ、ヨーロッパ系の上流社会がここでは生きていて 問題を乗り越えようと手を差し伸べてもいる。私が花藤氏に連れられて行ったチャリティーディナーはとても華やかで盛大(500人ほどの紳士淑女)、数千万円の寄付を一夜で集めたようだ!

花藤氏の先住民をテーマにした絵が大いに人気なのは前の項でも書いた。余談だが私の絵もこの夜買い手がついて、展覧会にメキシコに来た甲斐があったとささやかに祝った。


2018年12月19日水曜日

画家 Hanafuji

ラカンドンの村に着くと花藤氏はラカンドン族の衣装になった。ちょっと見 日本人とは思えない。過去にここでマリオたちと生活を共にしたらしい。道理でマリオのことを息子同然だと言っていたし、彼の家族も花藤氏のことを親戚のおじさんのように接している。深いつながりを感じる。
さて、彼はメキシコに渡ってからずーっと先住民の暮らしに惹かれそれをテーマに50年描いてきた。ここ15年くらいはサンクリストバルに移りより先住民と近くに暮らしその追求を深めている。それは理解者の広がりにもつながり今ではメキシコで名の通った作家だ。
その成功は多くの苦労のうえに咲いた花だと彼も語っていたが、彼の長男タロウ氏も異口同音であった。情熱と夢で突っ走った時代から50年、そこには芸術家一家の苦節があるのだ。
その成功のおかげで私などもこうしてメキシコの地で温かい歓迎を受けて 個展をすることができる。
写真は花藤氏の大作で 先住民の伝統舞踏の絵で征服者スペイン兵の行進だ。サングラスをかけて踊るのは地の顔を隠すためで、そこには被征服者の屈折した反抗の心が隠されている。

2018年12月18日火曜日

ラカンドン族のマリオ氏

かすかなかびの匂いがして そして川の音で目が覚めた。
そうだ、夕べは夜遅くマリオの経営するバンガロウに泊めていただいたのだった。
パレンケの遺跡を見学してから 花藤氏の旧友であり マヤの血を受け継ぐラカンドン族のマリオ氏が車で迎えに来てくれたのだ。
これからグアテマラ国境地帯にあるラカンドンの村にむかうのだ。緩やかな下り坂の道は徐々に森の中に入って行き 街灯などない山道はひたすら南にむかう。おおきなオレンジ色の満月が木々の間から煌々と でも怪しく輝き始めていた。時々おおきな連結のトラックがすれ違うだけの闇の道が続く。
メキシコの道にはトッペというおかしな出っ張りが至る所にある。高速で走り続けられないように設置されていて、街道沿いの村々や学校などの前でどうしても減速させられてしまう。どんな車でもゴットンゴットン どっこいしょ!と乗り越えていかざるを得ないのだ。そしてそこには案の定物売りがいたり 物もらいがいたりで・・・急に闇から手が出てきたりすると慣れない私などびっくりしてしまう。
ジャングルの道ではこんなことにも遭遇した。牛が数頭道端に転がっていたのだ!足が上を向いていたから死んでいたのだと思う。暗かったし、そんなことありうるとも思わないから とうとう幻覚に落ちたか自分を疑ったが、前席の花藤氏に声をかけると「グアテマラからの牛を運ぶトラック街道だから 事故った車が牛を放り出して行ってしまったのだろう」とのことであった!・・・
日本での常識が通じない1日だった。

2018年12月17日月曜日

マヤの遺跡パレンケを訪ねる

サンクリに着いてから間も無く花藤氏はマヤの遺跡パレンケに連れていくと言ってくれていた。「マヤ文明」・・自分がさして知識のないことに気づく!・・
メキシコの南部密林地帯に西暦300年ころから900年ころまで栄えた文明でピラミッドなどの神殿遺跡が20世紀になってから発見されているらしい。なんともロマンを掻き立てる遺跡なのだ。メキシコの歴史はそんなに簡単に語れないことは承知の上でガイドブックを拾い読みすると オルメカ文明(紀元前12世紀ころから)がメキシコ湾に栄え 次に中央高原にティオティワカン、トルティカ文明、アステカ文明(13世紀)が栄える。同時にユカタン半島ではマヤ文明が栄える。それが1500年にはスペインに征服され、キリスト教化されていった。
花藤氏の絵のテーマの一つに「マヤの村の舞踏」がある。それにはスペイン人たちに征服されていったマヤの人々の複雑な気持ちがその踊りには表現されているという。
メキシコ滞在も後半にさしかかる頃、いよいよパレンケ行きとなった。実は危険な旅なんだ。サンクリからは乗合のタクシーで3000m級の山地を超えて、さらにそのタクシーを乗り換えてまた山の中を走り やっとたどり着くというものであった。山の中の道で倒木で道を塞がれれば、追剥ぎだってありうるのだ。花藤氏も十分わかっている危険なので、財布は持つな、小銭だけポケットに。あとは胴巻にでも隠してとの指示だった。朝9時頃出て、パレンケつついたのは2時過ぎであった。絶対に暗くなっての移動は不可で さすがに着いたときは安心で汗だくだった。
パレンケはピラミッドや神殿も美しく大きくて そして広く 観光客でにぎわっていた。(近くには飛行場があるのだそうで 何となく納得。)
木陰で一息入れると花藤氏は初めてここを訪れた時のことを話してくれた。
それは50年近くも昔のことで、この遺跡が発見されてさして時がたってないころのこと。今のように観光のための整備はなく、木々に覆われたままであったそうだ。そこに歩き始めたばかりの長女を抱きかかえ家族3人で 入ってきたそうである。メキシコシティから1か月かけての車の旅だったそうだ。・・・
若い芸術家とその家族の今思えば無謀とも思えるような旅、その夢、見なければならないと思うこころ・・・聞いている内になんとも言えぬ熱いものを感じずにはいられなかった。今この隣にいる静かな芸術家の半生が ひと際激しいものであったことを感じずにはいられなかった。



2018年12月14日金曜日

San Cristobal de Las Casas

メキシコのチアパス州の街サンクリストバルにたどり着いたのは先月の1日で「死者の日」という祭日であった。骸骨やら 血塗られた花嫁やら奇抜な恰好の若者たちをみた。日本で見てきたハロウィンのようなものかと思ったら、(知人に聞くと)むしろ日本のお盆のような行事で、家族で墓参りをし先祖を近くに感じるための祝日という。
さて、私は空港からチアパス芸術交流会の花藤氏に迎えてもらい、サンクリ(サンクリストバル デラ カサス)の下宿に落ち着くことができた。
今回は 数年前から交流があるチアパス芸術交流会のお力添えで こちらの核となっている画家花藤氏に段取りをしていただいた個展開催が大目的である。
作品を質量ともに個展のレベルで運搬することは最大の難問であった。
2~3年かけてどういう形の絵だったら持っていけるのか試行錯誤してきたのだけれど、トランクにたたんで入れて持っていくのが一番可能かと感じ実行したのだった。ただ作品のイタミとかは最後まで心配の種だった。
幸い向こうの会場で広げたとき 然したるダメージはなくほんとうによかったと思いました。『これで個展は開ける!』と感じ
心底安心したものでした。
会期:11月15日~12月8日
会場:サンドミンゴ教会にあるロスアルトス博物館の回廊にて



2018年10月25日木曜日

Finalmente ire a Mexico!

昨年来の計画が いよいよ実現しそうな時が来た。メキシコで個展を開催しようと思い立ち、さまざまな人たちに応援され 励まされ 一年が過ぎた。
昨年5月の横浜でのメキシコ交流展で 初めて在メキシコ45年の日本人作家Akio花藤さんに出合い そしてその人柄に触れて やっとこの個展に踏み切ることができたのだ。
絵の運送方法やら、向こうでの会場準備、招待について等々・・一人ではとても考えれないことだった。
さて その後地元では 多くの人に応援していただき資金調達ができたのは ここで触れておきたいし 深く礼を言いたい。
春の南無展(立石のギャラリー南無)に始まり、夏のKURANO 吾亦紅 の会場には
中学の同級生や 高校の同級生が訪れて 買ってくれたのだ。本当に絵描きには力になる現実だ!
正直 こんなに大ぶろしきを広げず そっと行った方が気が楽だなんて思った時期もあったが それは大きな間違いだった。友に助けられ その覚悟を語り 責任のようなものを感じつつ また助けてもらう。そこに意味があったような気がする一年であった。
ありがとう、玉置君 藤沢さん!
 左の写真は 4年前チアパス芸術交流会の方たちが開催した「和の心とかたち」展のレセプションの写真ですが、この時は我が家はまだ受験生を抱えていたので 絵のみの参加となりました。もう一枚の写真はオープニングセレモニーで、バックに飾られていた絵は私の「芥子の花」と 達さんの絵でした。
この交流会のメンバーには強くメキシコ行を勧めていただき、そして委員会長の赤津さんをはじめ渡邊さんや多くのメンバーたちには最後まで支えてもらいありがたかった。
では、11月1日成田を出発します。Me ire!





2018年9月27日木曜日

藤田嗣治展をみる

夏の個展から怒涛の1か月が過ぎ、(このところ降雨続きで、稲刈り 脱穀に進めない。)小休止の今 友人から藤田嗣治の個展は見ておいたほうがいい由言われ 東京へ出かけた。
一番の理由は 私の藤田観について 日本美術界からのネガティブ感が実は摺りこまれているのではないかとその友人に言われたから。
「器用で処世術に長けた調子者の芸術家」というのは 実際どうだったのだろうか?
彼は 軍医の次男として生まれ、東京美術学校(芸大)で学んだ後、船でパリに向かった。1913年から33年ころまでパリで活動。時代は第1次大戦、そして狂乱の景気へて、大恐慌。パリのアートもキュウビズム、ダダイズム、機能主義などなどが現れ、エコールドパリ最盛期であった。一般的にこの時 藤田はおかっぱ頭で毎夜のバカ騒ぎ会に現れたという。“お調子者” というあだ名で呼ばれていたそうである。その甲斐あってかパリの美術界で有名になって行くことができたそうだ。
流れはそうだが、その間の彼の作品を見ると そんな上っ調子な評は 当たらないような気がしてきた。地道に絵を描いていた感じが、パリ初期の風景画に感じる。例えばグレーのトーンの繊細さ、臆病にも感じるくらいだ。
彼が言っていた言葉、「オリジナルであればあるほどパリの人は好んでくれる」と「当時一般に主流であった印象派的な画法をいかに捨て去るべきか」は誠に的を得ていると 私も感じたことだ。(藤田が言ってから50年も後のことだ。)未だにその脱却に時を擁している日本美術界はいったいどうなの?と感じてしまう。
 白と黒 繊細なモノトーンがなくなってしまったのは ナチの台頭でパリを抜け出すころだ。なぜか派手な色の絵になっていまい こころに余裕がない感じだ。
南米を経てから日本に戻ったが あまり魅力的な絵は残さなかった。戦争画などは色の魅力は全くないと言っていい。
展示では ベージュトーンの中にメキシコの原住人らしき人を描いたシリーズはなんか次の展開を感じさせたが。
 最後にやっぱりいいなと思ったのは、戦後再度パリに渡ろうとして、入国許可を待つ数か月間 滞在していたニューヨークで描いたのものであった。有名なカフェで手紙を書く女である。
彼は やはり旅人としての自由と所在なさが 絵の原点だったのではないか。
青春時代は バカもやるが純粋だ。モディリアーニたちとふざけあったり競争心を燃やしたり、絵で食べていくことを必死に考え 孤独に耐えそして恋愛もして・・・いい時代によく生きたと思ってしまう。

2018年8月25日土曜日

第一ラウンド、kurano展



怒涛の5日間、kuranoでの展示が終了しました。素晴らしい会場で私の絵にうまくマッチしてくれたようだ。150人を超える来場者があったことは、飯田の地では珍しいことだとおもう。さらに、高校の同期の諸氏がつぎつぎに訪れてくれ 応援の声をかけてくれたことについては、かつて不義理を重ねていた身にとりなんとも肩身の狭い思いも感じつつ、広い心のみんなに感謝を心底したい思いだ。


2018年8月2日木曜日

南信州新聞に記事


いよいよ10日ほどで個展が始まる。この酷暑を言い訳にのらりくらりとしていたが、もう動かないとやばい。
それにつけても
友人たちが応援してくれるのはうれしい。一昔前は 「一人でがんばるんだ」と息巻いていたが やっとみんなの応援がわかるようになった。周りが見えてきたのだろう。
家族や隣人そして友人たち・・・ あの人もこの人も顔が浮かぶ。
新聞記事を出してくれた友がいる。もう20年余り前から中村壁を一緒に研究したM氏、この度の経緯を細かく書いてくれた。(汚い私のアトリエさえ見に来てくれた!)
日本のしかも45年も前 油絵(=西洋美術)を学び始めた私が 日本を考え ヨーロッパを見、そして再び日本を意識して 絵を描いてきたが そことは明らかに異なる根を持つ美術に接したのは たしか二十数年まえ 一人でニューヨーク旅行をし メトロポリタン美術館で古代マヤの彫刻を見た時だった。
以来”?”をどこかに抱えて美術活動をしてきが、いよいよこの秋 そこに行って それを感じることができるはずだ。
あの底知れぬエネルギーとおそらく優しさとは異なる厳しさ、迫力。
そこに近づくための 気持ちを高める個展になるだろうか。しなくてはいけない。

2018年7月26日木曜日

KURANOの初日にJazz

8月15日にオープンする展覧会場kuranoで、ジャズコンサートが入ってくれた!まあなんと素晴らしいことだろう。  実はkuranoは1階がレストランで2階が展示スペース、そして一部が吹き抜け状になっているのだ。
偶然にも階下で キクスイ酒造の試飲会とジャズコンサートが開かれることになり不思議なジョイント?が実現となったのだ。
ニューヨークからのジャズギタリストによるコンサートのバックに私の絵も展示できそう・・・。
どんな空間を演出できるか、うれしい気持ちでいっぱいです。
試飲会場は前売り券による入場だけど、2階は私の展示場なので一応ただ!それをちょっぴり吹き抜けで楽しむことができるでしょう。この夜は9時まで開けてますので、夕涼みがてらお出かけください。


2018年7月5日木曜日

メキシコ遠征宣言展

こともあろうに こんな大それたタイトルをつけて展覧会をするのどうかと思うでしょう・・・
この11月ついに、メキシコ チアパス州のサンクリストバルで個展を開くことにいたしました。
ここまでの経緯を話しますと; 4年前の銀座ギャルリー志門さんでの個展で チアパス芸術交流会の方から翌年開催の「和の心とかたち」への参加を誘われたことから始まりました。嬉しくて二つ返事で参加を決めたのですが、作品の移送問題、家庭の事情(娘が大学受験を控えていた)、第一に金銭的不如意!で渡墨は叶いませんでした。やむなく作品のみ大きな筒巻きで 参加者の一人にもっていってもらいました。そして展覧会はかなりの反響だったとのことです。
昨年5月には、むこうで協力いただいたメキシコ作家たちの「Akio Hanafujiとチアパスの画家たち展」を横浜で開催し わたしは助成金申請や展示のお手伝いをしました。その折、メキシコ在45年の作家花藤昭雄氏に会い(見た目はメキシコ原住民作家、マジ思いました!)、強くメキシコでの個展を勧められました。チアパス交流会の方々にも なんか乗せられる形で勧められ とうとう決意をしました。
ただ・・・手元不如意の件は一向に解決していなく困っていたのですが、地元飯田の多くの友人が協力していただけると聞きまして 今度はその覚悟を皆様に見て頂かなくてはなりません!のです。
というわけで来月、DMにあるように、KURANOというスペースと 吾亦紅で個展を開催致します。何卒宜しくお願い致します。

2018年6月21日木曜日

16th 新耀展

この時期は 有楽町の交通会館で新耀展が開催される。搬入日とオープニングがことなる日のためなかなか上京出来ず よくてもどちらかの参加になってしまう。ましてやこの時期は梅雨の雨間に草刈りなど重労働もあるし、田植え後の稲も心配・・・(実は にわか農業者の私にはそんな心配さえ 以前は持ったことはなかったのだが、昨年この時期に 手を抜いて 田んぼが雑草だらけになり 秋の稲刈りに苦労しのだ。)
さて、その話はともかく、今年はある計画(メキシコ遠征展)を企んでいるので どうしても会っておかなくてはならないメキシコの方が来日している先週土曜日 東京に出かけた。翌日は新耀展搬入日、そして月曜はそのオープニング、とうとう長逗留になってしまったわけだ。
メキシコ遠征の方は いろいろな方々の協力で少しづつ形が見えてきたので、また改めて書きます。
新耀展は もう16回にもなるようで初期メンバーがお病気だったり お年を召したりで雰囲気がちょっと変わろうとしている気がする。会場の交通会館も周りのおしゃれな建物と比べ大分古くなってきて 建て替えもありうる感じだ。会の一人が「昔 よく孫を連れてこの上のレストランに来たもの。そこはレストラン自体がゆっくり回って展望を楽しめて 新幹線の通過がすぐそこで見られたのよ。もう一回もう一回と回るのを楽しんでいた孫も大きくなってもう一緒に来ることもないかしら・・」といっていた。
絵を描くことを楽しんで 人生を豊かにしていくそんな取り組みはいいものだ。
僕のように「如何に絵はあるべきかな」なんて重く引きずるのもどうかと感じる瞬間だ。
新耀展はいろいろな取り組み方をしている人の年1回の展示会、会ってお話しするのは楽しいし貴重だ。大事にしていきたい。

2018年5月24日木曜日

とうとう見ました草間展

私のようなインチキ農業者にとっても田植えは重要で、やっとそのけりをこの月曜日つけることができました。 松本の草間彌生展にいよいよ行くとき!と断言し、昨日行ってまいりました。
やはり、このアーチストは自ら「前衛芸術家」というだけのことはあり すばらしい。
よく言われることに、若い頃から幻覚があったというが(あの水玉の原点)辛い孤独な時代だったのだろう。毎日自殺を考えていたという。ただ 絵に向かうとそれとは違う世界が彼女の中にはできる。ものすごい集中が彼女を生に繋げた。
アートは自分の世界を作ってくれる、今生きている社会とは異なった価値観で。――
どんなに生き辛い世でも、人間の空間を展開してくれる。たぶん生への無意識がアメーバーが形を変えながら増殖の方向を探るように 息するところを作る。
そんな生き様を見せてくれている。さすがに全世界にファンがいるアーチストだ。まさしく前衛=世の先を行く、である。
ただ、遠いところの人としてみるのじゃなくて、社会からの疎外感が 違う価値観を自分の中に見出す一つの機会と考えることはとても示唆に満ちている思う。
 そして私が感動するのは、社会の価値観に媚びず(彼女にはその具体策などなかったに違いない)作品を作り続けた生涯作家ということだ。すごい集中力で今も大作を描き続けている。
日本はまだまだ功利主義や機能主義、社会の中の個人といった縛りの強い社会だ。若者がいや、もはや中年さえも社会から疎外感を受けて引きこもりなど孤立してしまっている。全体が違う価値観の存在を認めないんだな!
そう思うせいか、この展覧会を見に来る人に意外に40代50代60代の男性が少ない。社会の歯車として生きている人には、「ひく~・・・」展覧会なんだろうか? はたまた忙しくて草間展まで来れないのか・・・


2018年5月12日土曜日

1968年

68年という年はわたしにとって、一言では括れない年だ。
私は田舎の中学3年生で 外からの情報はテレビと夜時々聞くラジオくらいだっただろうか。地方新聞は家に来ていたが、読んでいたとは思えない。
熱いエネルギーはそれでもどこか私のなかで影響を受けていた。
昨日朝日新聞のコラム佐伯啓思氏の「異論のススメ」を読んで改めてあのころを思った。
「全共闘」については、全くよくわかっていなかったが、権威主義的なもの、資本主義で組織主義的なものには感覚的拒否反応が私の中で育っていったのはこのころの産物だろう。
刺激的な時代だった。東大の入試が中止された年が高1だったか?三島の割腹自殺も冬の日差しが差す(我々がスラム街と呼んでいた)高校文化部部室群前の芝生の上で聞いた。みな、その意味も捉えられずにポカーンと聞いた。大学受験の直前には浅間山荘事件がテレビで生中継されていて、受験で泊めてもらっていた親戚の居間で見た。
確かに、若者が「何か変えよう」とした熱はみるみる萎えていってしまった。
“しらけ”と当時言ったが、オイルショックと共に時代は 現実に立ち向う方向に確かに変わっていった。あのころ長らく工事中だった横浜の駅の地下街が急にきれいになって戸惑ったものだ。エミリオ・グレコの彫刻が置かれていて 自分も変わらなくては・・とどこかで思った。
≪何かを置き去りにしたが、甘さのも欲しかった≫という感覚が当時の私にはある。芸大浪人3年の頃であった。




2018年5月7日月曜日

客寄せパンダ

立石の南無3人展が昨日で終了しました。多くの皆様に訪れていただき 深く
感謝いたします。
前回のページでも書きましたが、オーナーの伊東氏やその友人である地元立石の有志の方々のご尽力で、多くの方々に来ていただいていたことを今回はつくづく感じました。
毎回、『南無祭』と名付けてイベントを企画し多数のイベンターを(自費で)呼んでくれて盛り上げてくれました。三味線グループ、和太鼓集団、フォークグループ、タヒチアンダンス、etc・・・楽しいご苦労さん会が毎回ほんとに楽しみでした。
ところが、オーナーがお持ちの会社を 若手にお譲りになってから、そう簡単にイベント代を賄う形にはいかず、今年が最後ということとなったようです。
私としては、そのイベントには全く関わらず、もっぱら展示のみ、・・・というわけにもさすがに行かなくなり、とうとうライブペインティングという“客寄せパンダ”に挑戦することにしました。
前の晩は、正直緊張で ろくに眠れませんでした。(約5時間は寝た)
直前のステージがタヒチアンダンスのステージだったので、その強烈な印象を、1.5mx5mのパネルに、三味線の演奏を聴きながら(ゼンゼン自分には聞こえてなかったけど)一気に描きました。30分くらいでしょうか。
なぜか受けて、結果上々の雰囲気で終わることができました。
普段見る私の絵とは ずいぶん違うらしく、その落差が良かったとの評でした。
僕としては、初めての経験で その緊張感こそが現場力となって 妙味付けになったかなと思っています。
まあ、もうやりたくない。

2018年4月17日火曜日

南無展2018

恒例のギャラリー南無の展覧会が始まろうとしている。地元飯田市三穂の立石地区にあるギャラリー南無であるが、オーナーの伊東さんがもう10年以上かけて整備しているギャラリーガーデンと言っていいゾーンだ。そしてこの時期は若葉が一斉に芽を吹き、鶯がなき、時には雉声さえ聞こえるのどかな山里なのだ。
そこに 毎年展覧会の中日にはミュージックイベントなどを盛り込み 地元の方々と大いに盛り上がる企画なのです。私の展覧会記帳の記録だけでも200人はあるから、4日間で3~400人くらいの人が訪れてくれる。この地を考えればまさにビッグイベントと言えるでしょう。
さて 私は この3年ほどメキシコ交流展にかかわってまいりましたが、とうとう本年11月に個展がメキシコにて実現することとなったのです・・・。
このビンボー絵描きにとりまして、うれしくもあり、また困難な道でもあります。
 (この流れで 賢明な皆様はもうお解かりとは想いますが) 私はこの機会に何としてでも遠征の軍資金を調達したい!こんな不純なモチベーションで取り組んでおります。
とにかく多くの方々に来ていただき、ご理解と、ご高配を賜りたいと、意気込む次第です。

ものすごく爽やかな出だしの南無展通知でしたが、最後はややギトギトしました。悪しからず。

2018年3月7日水曜日

ギャルリー志門の4人展

今回はギャルリー志門(銀座)さんのテーマ展「壁をめぐるものがたり展」に参加させていただいた。350x250cmの作品を昨年の秋ごろから手掛けていたが、大きいのでなかなか進まず物置でペンディング中だった。お声をかけていただいたので奮起して持ち込んだ。大きすぎてまともに自作を見られなかったので、展示も持ち込みの方法も含めドキドキものであった。
何とか初日を迎えられ、なんとも安心した。そして昔から銀座の展示を見ていてくれる人たちが『いいよ』と言ってくれる。何と苦労が報われる瞬間だ。
この4人展の参加者は
矢板晶一さん、田中良さん、照山ひさ子さん。会期は10日土曜日までです。
残念だけど私は金曜日と土曜日にしかいられないが、ぜひともいろいろな方に見ていただきたい。

2018年2月19日月曜日

18回現代の創造展

昨日から現代の創造展(飯田市美術博物館)が開催された。いつものように雪にならず まあいいスタートとおもわれる。
もう18回になるというこの展覧会も、またリニュ―アルを考えていかなくてはならないと思う。数年ほど前は(この展覧会が10年を経て 妙な権威主義が生まれ、改革が叫ばれていたころ、たまたま私も参加作家として呼ばれはじめていた。)重鎮と呼ばれる方々に忖度をする会議が横行し、なかなか思うような運営できていかなくなっていた。そこで僕らは同時開催の飯伊50人展なるものを3年ほど企て同展を揺さぶってみたりもした。
結果 改革の兆しが内部で生じ コンテンポラリー部門設立という改革にまで至ることができた。若者たちの観覧も徐々に増えて当事者のわたしたちも嬉しい限りであった。やはり展覧会は 自分の作品をただ出品するだけでは盛り上がってはいかない。
どんな展覧会にするのか?どう展示していくのか?実行委員会は事前に気運を高めていかなくてはいけない。そして会期中は観覧者に声をかけ なるべくコミニュケーションを取りたい。そうすることによりわたしたちも作品のレベルを上げることができた。
なによりも作品発表に自信が持てるようになったのだ。
それがコンテンポラリー部門に立ち上げから参加してきた私の実感なのだ。
いよいよこれから新しい改革を考えていかないと、いままでの驚きもいつの間にかマンネリになってしまうだろう。

2018年2月15日木曜日

壁をめぐるものがたり展

来月5日から10日まで銀座のギャラリー志門で開催される「壁をめぐるものがたり展」に参加いたします。
久々の銀座で 嬉しく思います。壁に関わるテーマで呼んでいただき ほんとに嬉しく張りきっておる次第です。
昨年CAF.N展に出品した作品が出発点となり 人間の深い部分での悲劇をも飲み込んで歩いてきたそのさまを作品にしていきたいと思っています。
他の方々はまだ存じ上げない作家ですので、緊張もしています。乞うご期待!

2018年2月12日月曜日

もう16年

佐倉は長野県に比べ本当に温かい。16年前の彼のお葬式に来た時もそう感じたのだが・・・そう赤い梅も咲いていた気がする。
林泰司君はイタリア、ペルージア時代からの飲み友達でもあり 深い美術仲間だった。私たちはイタリアの夢のような暮らしを終えてのち それなりに日本社会へのリハビリに苦労していた。よく酒に憂さをぶつけていたが 彼はそれが高じて体を壊してしまった。
ある年の正月が過ぎてしばらくして 訃報が届いた。・・・それはショックだった。戦友の死と言うべきかも知れない。
長野県の飯田とはなかなかの遠距離なので そう何度も墓参りに行けなくて 気になっていた。
ところが奇遇なことに 娘が近くの大学に通うことになったので 去年今年と続けてお参りに行くことができた。
あんなにもがいていた時代も 時がたてば それこそ それなりに形になっていくのに・・・そう思うと彼の死は いまだに残念だ。
この私とて (絵のほうでは全く先が見えないが)外から見れば一端の父親となっているのだから・・・

2018年1月15日月曜日

展示に難儀 ひのま3人展

とうとう明日で終了のひのま3人展、実は展示が大変だった。横地さんは牧内さんの愛知芸大からの友人で気心の分かり合った方。ところが私は知り合ったのが昨年の岐阜の彼の個展ということで未知数そのものの関係でした。
そして搬入日にはなんと50点を超えるほどの小品を持ってこられて、わたしたちは正直 どんな3人の展覧会にできるのかイメージが瓦解してしまった。・・・
横地さんの御歳は72歳、いくつかのお病気をお持ちで そのうえ昨年暮れに自転車にはねられコルセットを腰に巻きやっとやっと来場されたのだ。あまり全体にこうした空間にしようというお考えは無いようだった。

孫とのやり取りの中で触発されたというコラージュの小品群は まさに遊びで 自由で 何のこだわりのない楽しい作品であった。
ああ、この自由感と 現実にどう展示するかという問題は 作家横地氏の頭の中には全くないのだ! 
そしてその事情は長年の友人の牧内氏は心得ていた。
わたしもほんの半時間ほどでその事情は理解できた。牧内氏と私の2人で飾り付けをするしかないのだった。
結局 壁には収まり切れず写真のような空間となりました。
始まってみれば、横地画伯の教え子たち(若い女性ばかり!)が多く訪れ『先生っ!』『先生っ!』と華やかそのものであった。
なんとも 絵は作家のキャラクターだなと 思わざるを得なかった・・・

2018年1月6日土曜日

ひのま3人展

2018年、明けましておめでとうございます。寒い冬です。
11日より名古屋にて3人展を開催いたします。準備も万全と言いたいところですが、いつものように若干ブルーです。
展覧会は「ひのま3人展」といい、名古屋中区栄のギャラリー尋屋、(ひろやと読みます)松坂屋南館とパルコ東館の間にあるコンフォレスト尋屋というビルの5階にある画廊で開催します。3人展の”ひのま”は横地洋司氏と牧内則雄氏と私林正彦の頭文字で名付けました。暇な3人展ではありません。お二人はこの道の大先輩で私にとっては胸を借りる十両なようなものなんですが、フランクな人柄な人たちなので なんとなくゆるく準備に入ってしまって、いま痛い目を見る直前の状態です。
メンバーの牧内氏は実は私の従兄で小さい頃からあこがれのお兄ちゃんでした。絵はうまいし、なんたって笑わせてくれる面白い兄ちゃんだった!。いつしか同じ道を志していました。ところが、デッサンはいくらやってもとても足元にも及ばない。自然と抽象画の道に私は進むこととなったのです。そして40余年 一緒の空間で展示ができることは 感慨深いです。(カチッとした造形の前では依然としてブルーな思いですが...)
横地氏はその牧内さんの愛知芸術大学の先輩です。
私は初日1月11日とその土曜、日曜(13日、14日)に在廊を予定しております。
ぜひご高覧を。