2016年7月14日木曜日

FontanaとBurri

この頃よく若いミュージシャンが”ロック愛”を語るが 私は"現代美術愛"をつい思ってしまう。
ちょっと前何かの展覧会セレモニーである美術家がとうとうと現代美術なんて存在しないのではないかというようなことを言っていてとてもがっかりしてしまった。確かに今の上野を中心にした美術界はそんな淀んだ感じなのかもしれない。私は何度も書いているがポロックあたりからのアメリカの現代美術やヨーロッパの戦後アートに心を奪われている人間なので 一緒にしないでくれと思ってしまう。
さて、フォンタナの話の続きを書こう。
フォンタナは戦後まもなくローマでブッリたちとグループ展を開く。ブッリはペルージアの近くの街で生まれペルージア大学医学部後、第二次大戦にアメリカの捕虜になっている。そんなあと数年で ”あのアート”になっていくのだ。武満徹の音楽のように深くて強い抽象性がある時代だったのだろう。・・・
生き死にの地獄からの解放であったのか・・・
ブッリの麻布の作品が私は好きだ。そこには描かれたというフォルムはない。あるのは素材の布のもつ柔らかさ、やさしさ、強さ、それに生きた人間がそこにいたという人間に対する親和性など、それが破れた汚い麻布だという既成の価値観から一歩踏み込んで観たときに しっかりと感じることのできる絵なのだ。それはそれまでにはなかった新鮮で斬新な表現だった。
私はその世界が私の進みたい表現の道だと思った。だから前回書いたように[フォンタナ以降の世界]を信じた一人だった。
ブッリはその後ビニールを焼いたり、タールを大きく固めたりしていたがやがて新作はなくなってしまった。
その後の美術界もその素材性についていろいろな展開を見せたがだんだんと物に近くなって素材性のストイックでロマンな感じが薄れてきた。アルテ・ポーヴェラの旗手たちも素材を深化させていったが表現される豊かさは薄れていった気がする。作品の訴える力は小粒になっていったと言わざるを得ない。作品の素材感が 即物的なクールなものになり やがて心の通わない世界になってしまった気がする。(一歩踏み込めば 豊かに感じることができていた表現が 消えて言った感じ)
そして今や お化けのようにまたフォルムが出現してきた。それは初期の素材性を否定することなのに・・・
抽象的なことを感じる感性が萎んできているのかな?世の中も 私自身も・・・
戦争から70年ということもあるだろうし、TV(テレビ)の登場も見えないものを感じにくくしているんだろうな・・・
画像は10年前の自作。

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