2020年12月2日水曜日

書というジャンルを素人が考える

前のページから地元展覧会(現代の創造展)のなかのジャンル”書”について考えている。私は今年展示係としてジャンルを超えた展示を目指していました。具体的には日本画、洋画、版画、工芸、彫刻、書、コンテンポラリーの7つのジャンルの壁を取り払い 大きなテーマ(①立体具象、②立体抽象系、③平面で家族的人間的なもの、④平面で内面的表現なもの、抽象画的なもの、⑤風景、⑥リアル表現のもの)で括る企画としたのです。そこでうまく読み解けなかったのは書の分野でした。書の中でも作品性が際立つものはこころに入ってくるのですが(写真は素人の私が今現在個人的に惹かれた作品です。)多くは品あって凛としていて素敵だけど、スーッとながれて心にとどまらない。前のページでも触れたけど、東洋文化の「己を空しくして修業し、悟りに至れ」という心が自己表現を否定していて 「この人は何が言いたいの?」という問いには答えてくれない。人間業を超越した書を目指す修行僧のように顔が虚無僧の傘に隠れて見えないのです。一方私たち所謂西洋絵画の概念でスタートした者は人間のしかも自分というものがこう感じこう表現しました。と考えるから今の自分の、例えば「痛み」が表されるのです。書の人は「今の痛み」は乗り越えるべきものなので決して表すべきものではありません。「痛み」は西洋では美に繋がるに対し、東洋では未熟で醜悪となりうる。

しかしここまでの論理は近代までのお話で、私が挑戦した今回の展示でヒントにした新しい考え方でその2つの概念は乗り越えられると思っていました。それはコンテンポラリーの考え方なのですが、西洋の自我を中心に据えた考え方は、最後はエゴの戦いの場となり疲れ切ってしまう。(例えばかつてビートルズがインドの思想に惹かれたように。)だから東洋の「自然に調和して立つ自我」のようなやさしい人間としての自我を目指しその心に新しい美があると考えるのです。この考えは書の世界にもきっと共有できると思っていました。

しかし今現在当展覧会の多くの書作家たちは自分たちの書道の世界から出ることなく、慣習にとらわれ なかなか私たちとさえ向き合ってもらえてないように思ってしまう。

ぎすぎすした自己主張の社会に なにか涼やかさを与えてくれる可能性のあるジャンルだと思うので 今一歩オープンな展開を期待したい。せつに思います!




 

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