2010年12月29日水曜日

三遠南信展


この日曜日(26日)で今年最後の展覧会が終わった。三遠南信展の飯田展は珍しく雪に見舞われて、週末にこちらに来られた浜松、豊橋のかたがたはびっくりの様子だった。主催者のギャラリー風蘭の吉田さんは、道で転ばれたよう、・・・大丈夫だったかな。5時に市民ギャラリーをみなで和やかにかたつけて一まず終了。

今回で3回となるこの展覧会は吉田さんの全面的バックアップで行われている。明るい性格と、飄々とした感じでみなをひっぱってくれて、なかなか得がたい展覧会になってきていると思う。また三つの土地柄も微妙に出ていておもしろい。妻曰く“ヘリコプターや夜の蝶は 飯田の人のモチーフにはならないね。”

2010年12月19日日曜日

クリスマスプレゼント

ヨーロッパから素敵なプレゼントが届いた。なんと 先月ドタバタしながら応募したブルガリアのミニ絵画コンクールで賞を頂いたのだ!



まずは英文のメールが届き、International painting & mixed media competition 2010 がオープンしたという告知があった。その日は『あー何人もの人が参加したんだなー』と言った程度でメールを閉じてしまった。翌朝 賞のことも気になってもう一度そのHPhttp://www.lessedra.com/ipmmc_list_accepted.phpを見ることにしたら、昨日気がつかなかったPRIZEのページがあった。クリックしてみると なんと私の名前があるではないですか。


高校受験で試験中 気持ちが悪くなって、保健室で試験を受けて やっとやっと高校に進んで以来、コンクールやら試験というのは 苦手というしかなかった。芸大受験も何度もだめだったし、車の免許にいたっては一生仮免のままかと思うときがあった。県展とか団体展からも選から漏れた。賞とは縁がないものと感じていた。


だから人が褒めてくれることこそが その人がくれた賞だと思うことにしていた。買ってくれれば賞金が付いたと考えることにした。こんな価値観が多様化している時代に賞などあまり意味を見出せない、とも考えていたのだ。・・・


しかし 北風と太陽の旅人のように、私の筋肉は不覚にもふにゃふにゃと緩んでしまった。


私を支えてくれた人たちに知らせると みんな大きく喜んでくれた。やっぱりうれしかった。頑張ろうとおもう。

2010年12月16日木曜日

創画展


上野に創画展を見に行くことにした。
しばらく前に平面領域展の原氏から電話があり 地元出身の宮島弘道氏のギャラリートークがこの日あるということを聞いていたからだ。
都美術館が建て直しになり ここで行っている公募展団体が2年間いろいろなところで開催しなくてはならなくなったようだ。創画展もそのため 上野の森美術館での開催になった。
会場はそんなに広くないので 大きさが100号までと制限されていたようだった。大きさが抑えられていることは 実はぼくには好感が持てた。見る人を圧迫してきて疲れるという感覚を 大作ばかりの展覧会は感じるから。

さて、宮島氏の作品はやはり素晴らしかった。表現の領域を自分の中で規制してないので、見ていて気持ちがいい。思わず心の中で にやりとしてしまう。こういう作品にはそうは出会えないのでうれしかった。

自分の中途半端な姿勢に活を入れてもらった気がする。

2010年12月4日土曜日

多様性の世界


CAF.N展の後思った。一口で『多様性の世界』といってもなかなか理解できないことが多い。いろいろな生き方や考え方をそれぞれ認め 尊重しようというものだ。しかし たとえば北朝鮮を認めるのかとか イスラムの原理主義を認めるのか わたしにはわからない。
では反対に一つの価値観が世界を包んだらどうだろう。便利そうだがとても怖い。たとえばお金、普通に働いて暮らしていたら 突然会社の仕事が減って失業者となる。普通の暮らしを脅かされたのだ。去年の暮れに起こったリーマンショックだ。リスクを取って暮らしていたわけではないのでまったく理不尽な事といえるだろう。お金に重きを置かない価値観で暮らしていたらさして動揺しなかったかもしれないが 暮らしには最低限の金が要る。お金とは物事の価値をデジタルで表示することだ。だから怖い。中国の米作り農家も カリフォルニアの大規模米作りも 中途半端な米作り人の私も同じ土俵で値踏みされる。現実だ。
こうしたグローバル化は巨大なモンスターのようだ。小さな価値観を次々に食い滅ぼしていくような感じがする。かつては近代化という美名で。
やはり多様性の世界を守っていかなければいけないのだ。アートはそれを主張する。
このごろの新聞にはTPPとか 私の会社ではISO取得とか 日常的にモンスターに飲み込まれつつも、
オリジナルの暮らしを創造していかなくてはいけない。

2010年11月30日火曜日

耕す


米作りの工程の中で私がもっとも好きなのが この時期の田おこしだ。おこしと書いてさて漢字はどんななんだろう?起こすかな・・土を起こすから。 要するに耕すことなんだが・・・

刈り取りの終わった田んぼにトラクターでロータリーをかける。疲れた土に刻んだ藁と空気を混ぜいれ ふっくらとさせるのだ。

幼児の乗る三輪車のような速度で田を進む。歩くより遅いのだ。ちょっと日常のリズムと違う。実はそこがいい。初冬の景色を眺めいろいろ思いながら耕す。そのうちにいろいろな思いも消え、湿った土の黒さと枯れた藁のベージュ色を見るだけになる。なぜか豊かな気持ちになるんだ。

ボーっとして いつのまにか曲がっているトラクターにハッとする。耕された土の上で餌を探していたカラスに笑われたかな。

2010年11月22日月曜日

CAF.ネビュラ展ー3


昨日がこの展覧会の最終日であった。撤収のため妻と娘を連れ立って出かけた。二人ともこの自由な雰囲気の展覧会を嫌いではなかったようだ。しかし、たのしみは知らない町のショッピングのようだったのかもしれない。一回りした後 浦和の町に出かけて行った。
さて私は今度も作品の多様性を知ることになった。最初の部屋に置かれた大きな茶色のえんどう豆のような作品。作家の石田泰道氏と話をすることができたのだ。作品はいわゆる彫刻的な鑑賞にはおさまりきれないいろいろな意図が含まれていた。えんどう豆のくりぬかれた胴体の中には自然の中に身を乗り出すという、アクティブな行為が内在している。簡単に言えば、これでカヌーよろしく川を下るのだ。自然に対するパフォーマンスの痕跡ともいえるような作品だ。ふふーん!と深くと思った。若者だ。

無事撤収を終えて家に帰る途中、妻と娘に私の作品の感想を聞いた。妻はインパクトはないが静かに色が語りかけてきた、といってくれた。身内はありがたい。確かにいまひとつ弱かったかもしれない、頭も固かったか。今後につなげよう。一方娘は『色が薄くてつまらなかった、』と ひとこと。辛辣だ!

2010年11月18日木曜日

CAF.ネビュラ展ー2







CAF.N展のアーティストトークが14日の午後展示会場内であった。内容は主に田所一紘氏(メンバー作家)が主体となっていくつかの作品について(事前に作家にインタビューなどして) その意図などを語ろうというものである。“素直に、露骨に、不器用に、自分自身の心を表現する”というのが作家の出発点、では その作品はどのようなものだったのか?今までわたしは 大きな展覧会に参加してこなかったので、100点を超える作品たちをしっかり見ることはあまりなかったのかもしれない。とくに自分以外の 絵の方法論が違う絵には全く見入ることはなかった。しかし、自分の心を表すという根元から作品をながめると、また作家の話を聞くと見えてくるものがある。新鮮な気がした。たとえば渡辺武郎氏の“People-10-10"写真を反転させた群像で白昼夢のような風景。歩行者天国の群像がふわふわしていて幽霊のよう。私は普段だったら写真の質感が厭で立ち止まることもなかったかもしれない。しかし技術的な話を聞いているうちに人間の所在無さ、存在感が薄れていく怖さを感じてきた。作家の人間性に少し触れた気がしてうれしかった。


現代美術は多種多様。ヒントがないと理解できないアートもあるのだ。ただ、一頃のように、コンセプチュアルで まったく理解を超えるものは少なくなったと思う。

2010年11月17日水曜日

CAF.ネビュラ展-1


CAF.N展が先週から埼玉県立近代美術館で開かれている。昨年るたんでの個展以降に評論家の赤津氏や画廊の中島さん その他多くの人にご苦労頂き、この展覧会のメンバーに加えていただいた。春には 横浜で この展覧会の支展的な位置づけのCAF.N横浜展が行われこれにも参加させていた。多くの現代美術作家の中で 自分の作品が展示されるということは意義深い。いろいろな視点で現代美術を見ることができる。自分自身も見られる。

少し 徐々にそのあたりを考えて見ようと思っている。

2010年11月13日土曜日

コンペ


10日ほど前突然 版画家の北野さんから電話をいただいた。ブルガリアの画廊が主催するミニペインティングのコンペに参加してみないか、というものだった。たしかその画廊さんは北野さんたちとお付き合いのある画廊でLessedraさんと言ったはず。 以前 飯田にこられたとき偶然ミュー美術館で私の個展を見て名刺を置いていかれた方だ。あの時直接お会いできなかった事と、私の貧困な英語力のため、こちらからコンタクトを取ることをためらっていた。それがこの一報!あわてて作品作りに没頭した。いやいやそれだけではない。コンペ参加費の送金、エントリーホームの入手、そしてプロフィールの英訳・・・私には手におえないことばかりだった。北野さんやOさん、Eさんに助けていただいてやっと先週ブルガリアに小品3枚送ったところだ。きのうLessedra画廊のMr.Georgiから参加を喜んでます。とメールがあった。こちらもうれしかった。ひと段落だ!

あとは、来月 出るだろう結果を待つことにする。すこしどきどき。

2010年10月31日日曜日

contemporary


コンテンポラリーアートという名称の展覧会はいま比較的よく聞く。現代性に重きをおいた展覧会だ。しかし なかなか訴えてくる作品に出会えないと思うのは私だけだろうか。

なぜなんだろう?表現の新しさを求めた作品もそんなに真新しさを感じない。どこかでみたなーと感じてしまうか それがどうしたの?と思わず口にしてしまう。

1960年代から70年代のコンテンポラリーアートの持つ熱、緊張感、創造性、そして怖さ、明日をも知れぬ向こう見ずさ、そんなすべてが今のコンテンポラリーアートに欠けている。ほとんど抜け殻だ。

私も身を置くこの世界がそんなんでいい訳がないが、現実はジリ貧状態。

作品に取り組む人たちの多くがもういい年だ。当然明日をも知れぬ無謀な挑戦する作品を発表できるわけがない。

私の好きなイタリア人作家のアルベルト ブッリ 彼はあの熱い時代に無数の素晴らしい作品を次から次へとつくった。そしてパタッと止めた。後は人とも合わなかったようだ。私はイタリアにいたころ 彼に会いたいと願っていたがかなわなかった。

かれのあの創造性 緊張感 エネルギーを考えると 何年も続けることができなかったのかもしれない。

もしかするとコンテンポラリーアートは すでにもう終わっているのかもしれない。・・・
次に来たのが アニメアート? いやいやそれではいけないと思う。


さて 話し替わって 先日今村由男氏のアトリエがオープンした。南アルプスを一望できるすばらしい工房だ。自分の作品を売って家族を養うだけでなく こんな立派なアトリエまで建てられるんだから すごい!写真は彼のスペイン時代のものだそうだ。

2010年10月23日土曜日

2010-米


脱穀もやっと終わり今年の米作りもまず終わりと思われる。拍手!

今年は多難であった。春 桃の花が咲くころ雪が降った。籾蒔き後の小さな苗には大きなダメージで、いくつかの苗はだめになってしまった。しかたなく田植え時に足りない分を農協から買った。しばらくは天候不順だったが、とつぜん高熱の夏が続いた。取り入れのころも暑さにまいったが、なんとか家族総出でやり終えた。実りきらない米が多かったと父は言っていた。確かに臼挽き後の米は小さいし緑っぽいのやら、白っぽいのやらが混ざっていた。

最後にオチまで付いた。臼挽きを知り合いの方にお願いして挽いてもらったのだが、手違いで なんとうるち米ともち米がブレンドされてしまったのだ。6対1ぐらいの見事なブレンドのためどうすることもできない・・・一年間この米を食べるのかと母は嘆いた。

早速食べてみた。いつもならみんな幸福そうに食べる新米なのに 怪訝顔だった。わたしはそんなに気にならなかったのだが・・・小6娘はもちが好きなのでひとり明るかった。

翌朝 炊飯器の中をみると残りご飯の一部が団子のようになっていた。どうして?

どうも娘が 夕べそっと“ミニひとり餅つき”をやったようだ。

2010年10月10日日曜日

金木犀



秋は来ているのに 暑い、と思う。稲刈りをナントカ終えて多忙な秋を乗り切らなくては。



さて次々と届く展覧会の案内状。横着を決め込んでほとんど顔を出さない。・・・ところが実はそうも行かないのだ。お世話になった方の会や次の発表に繋がる会にはさすがに出かけぬわけには行かない。



作品作りは切迫した思いでやる。11月にはCAF.ネビュラ展が始まるのだ。



農事、これも恥ずかしながら年老いた父に促されながらなんとかやる。これからは脱穀という作業に丸2日はかかるだろう。それ前に晴天が続かないと稲が乾かない。天気予報を横目で見ながら。



もっと秋を楽しまなくてどうするのだ、と自分を落ち着かせる。多少 頭に血が上っているせいかむやみに暑く感じるのかな。金木犀の香りを鼻の奥まで吸い込む。ツーんとする。沈静・・・・?

2010年10月3日日曜日

Gallery 風




赤津氏企画の『私の愛するアーチスト展』が銀座のギャラリー風で始まった。オープニングには多くの人に来て頂 たいへん盛り上がった。グループによる展示はお互い知っている同士でやる場合と、知らない方々とやる場合があるが、今回はほとんど知らない方々ばかり。


ふだんあまり接することのない分野の作家さんたちと知り合いになってお話ができるのは緊張もするが、楽しいし 意義深い。たとえば久住敏之氏、わたしは初めてお会いしたのであるが昨年のるたんでの個展に来ていただいていたようで私の絵を知っていてくれた。すぐに打ち解けた話ができてうれしかった。


彼の絵は目鼻立ちのはっきりした男女を描いたもので昔のテンペラ画のような印象を受けた。(実際は油彩) バックには海があり波打ち際が侵食された半島らしき風景が見える。どこか デキリコの形而上派のような空気がた漂っている。いつもならここから先にはあまり入っていけない。しかし昨日は同じ出品者に『男の人と女の人の鼻の形が同じだけれど なぜ?』と聞かれ 彼は隠れキリシタンをテーマに描いていて写実的な描法ではなく頭の中のイメージを表そうとしていることを説明してくれた。画面全体でそのキリシタンのストーリーを象徴しようとしているのだ。そのあたりの知識がなく漠然と人物画と捉えると部分の違和感に注意が行ってしまい、作者の意図を感じ取れないことになるのかもしれない。




絵はホントにいろいろなスタイルがある。作家の生き方が違えば方法論も違ってくる。当然現れてくる表現も違う。見る側も同様。


ただ共通しうるのは 今われわれは同じ時間に生きているということだ。その分母で割って公約数が出てくるか?感性がそれを導き出してくれるのか?・・・


わかる絵もあれば わからない絵もある ということは当然かもしれない。






2010年9月26日日曜日

すどう美術館


CAF.N展の会合に浦和まで出かけた。そこで すどう美術館館長の須藤一郎氏の講演を聞いた。確かギャラり-るたんがあるビルの4階にあった美術館だ。画廊というには広い感じで3つほどに部屋が分かれていた。比較的若い人を中心に自由な展示をしていたという印象がある。3年前に小田原に移ったと聞いていた。そこの館長さんの話だから興味があった。

その方の話は 品のよい静かな口調で、すぐ引き込まれた。

中年過ぎまで 美術とは無縁のサラリーマンであったが ある時 菅創吉という作家の絵に感動し 収集をはじめた。その後町田の私宅でコレクションを一般に公開するようになり、小さな美術館としての第一歩となる。定年のあと銀座に出る決意をし、10年の実績をあげた。アートは心の糧であるをモットーに 今は小田原で活躍中。

ギャラリストは作家にとってなくてはならない人たちだと 私たちは常々思っている。

 ◎なぜ、作家はギャラリストを必要とするのか?
   1) 作品を発表したい。
   2) 作品を売りたい。

 ◎ギャラリストとは?
   3) 作品を売る。
   4) アート作品の展示。企画。
   5) 愛好者の開拓。

 『アート愛好者層とはどんな人たち?』
すどう美術館の館長さんの話を聞いていると アートに対する高邁な思いがいろいろな社会で生きている人たちに何か何かをアピールしていると感じる。そしてその人たちがそれぞれの思いで 美術館にいき、作品に接する。アートに出会う感動がそれぞれの人生に生まれうるわけだ。

この丁寧なお付き合いがアート愛好者をはぐくむのかなー。



   

2010年9月15日水曜日

高い目標と実生活


昨日の朝日新聞スポーツ欄にサッカーの本田のコメントが載っていた。興味深かったのでここに乗せる。------<略> 日本人のいいところって何だろうとよく考える。例えば気遣いがある。いろんなところに気づく。視野が広い。むしろ広すぎるのかもしれない。考えなくてもいいところまで考えているときもある。フォルランはいったいどんなメンタリティでサッカーしてるんだろう。 <略 >  日本人の僕らは、考え方を根本から変えなければいけないと思う。横並びが大好きで、出るくいを打つ文化を変えないと。W杯優勝やバロンドールを目指すのが当たり前になってはじめて、いつか実現できる時がくる。天才的な選手はきっと、高い目標に到達するための考え方やいき方を自然にできるのだろう。僕は天才ではない。だから必死に探るしかない。<略>-----


確かに海外に比べ日本は横並びが好きだ。超金持ちも少ないし とんでもない貧乏人も少ない。でもちょっとづつ変わっているのも事実だ。才能に対して多額のお金を払う文化になってきているし、本田のように自分を信じ突き進む若者も多くいるだろう。
そんな日本の流れは『負け』に耐える強さを持たなければいけない、とも思う。早々勝つ人ばかりではないんだから。なかなかきびしい。

私の職場にNさんというおばさんがいる。いつも少し怖い顔をしていて、 ちょっと近寄りがたい感じだ。私は実直でまじめな姿に好感をもっているが、難しいところもある。不器用で物覚えもそんなに得意ではない。そのため忙備帳を事細かにつけ一度したミスは繰り返さない。朝早く出てきて入念に仕事を準備する。問題があると大変な剣幕で聞いてくる。ノルマの数もいつかはクリアーするようになる。負けず嫌いなのだ。なんとなく他のひとたちに意地悪されているようだが どうってことないといった感じだ。そのせいか人と話もしない。なかなか高い意識を保っていると感心する。ある意味 横並びなんてまったく否定してるだろう。
そんなおばさんだからあまり話もできないが 昼休みに何度か言葉を交わしたことがある。
彼女は野球のイチロウのファンだという。ナルホド。
それに なぜか地方紙のお悔やみ欄ファンのようだ。・・・

写真は本田の好きだというフォルラン。目つきがすごい。

2010年9月11日土曜日

sokuzakaku



久々に散歩に出る。どこかでソクザカクを刺激しないとやる気は出ないと聞いたからだ。


この暑さでほとほとまいっていたが、ソクザカクの話には興味を引いた。どうも即座核と書くらしく脳の一部らしい。人のやる気は 車のエンジンのようにセルモーターを回して起動させてやらないと出てこないらしい。そのセルモーターにあたる部分が即座核という脳の部分でそれを回してあげて やっとやる気がでる海馬が動くらしい。すなわち まず動け!というわけだ。暑いといってグダグダしていては いっこうにやる気が出ないわけだ。ナルホド


さて、台風が過ぎた朝いつものコースをぽつりぽつりと歩き始めた。真っ直ぐな田んぼ道は正面に南アルプスが見えて 大きな屏風のようだ。いつもは伊那山脈と赤石山脈は一体にしか見えないが 今朝は雨上がりの雲が手前の伊那山脈のスカイラインを際立たせている。いっぽうそれより高い赤石の山並みは雲の中だ。あそこに中央構造線が通っているのか、とにわか地質学者ぶる。


道を曲がると 今度は墓地がある。去年ここを通るといつも新しい花がたむけられていた。しかし今見ると花は枯れていた。家族の悲しみも少しは和らいだということか。


そこから坂を上り果樹地帯になる。 犬を連れた散歩者や おなか周りをもてあますようなウォーカーにあう。少し照れる。


りんごもだいぶ色づいてきたなー。


秋にはいくつか自分が参加する展覧会がある。頑張るか と思う。


ついでに お知らせ。


赤津侃氏が企画の『私の愛するアーチスト展』Ⅲに参加させていただくことになった。


期日 2010 10月2日(土)~7日(木) 12:00~19:00


場所 ギャラリー風   東京都中央区銀座8-12-13豊川ビル4F


               03-6226-2797








2010年9月1日水曜日

防災の日


先日 天竜市に出かけた折に感じたのは この三遠南信地区はつくづくややこしい地形だということだ。

地質構造の本を見て改めて驚いた。恐竜で有名なジュラ紀の時代にユーラシアプレートとフィリピンプレートのずれで中央構造線というにができ(九州阿蘇あたりから四国北側を経て紀伊半島横断 渥美半島に来て最後は千葉の銚子あたりに抜けるライン)

その後北米プレートと太平洋プレートのせめぎあいで東北日本が中部で合わさり そしてそこにフィリピンプレート上の伊豆半島が突き刺さったらしい。(100万年前)

それにより真っ直ぐだった中央構造線は赤石山脈西から諏訪まで曲り そして八ヶ岳の北側を霞ヶ浦方面に抜けるという。

南信から静岡愛知に貫けるゾーンが山深く谷が険しいのは そんな地球規模の力が加わったからなのだ。そして先日通った国道152(秋葉街道)はまさに中央構造線上にあったのだ。上村のV字渓谷はその地球の歴史をよく伝えているに違いない。

それにしても日本はよくこんなプレートの境の危ないところにあって沈まないものだ、とつくづく感じてしまう。40年前の“日本沈没”(小松左京)を思い出した。沈まないまでも平和であってほしい。

2010年8月29日日曜日

残暑・・・


夕方 日の暮れる時間が少しばかり早くなった気がするが依然35度の日が続く。今年の暑さは尋常ではない。

午後になるとただ生きているという感覚になってしまって虚しい。否それさえ空ろな思いだ。

9月になるといろいろやることばかりだと考えただけで気が重い。ふと思う、西日の鬼瓦・・。そんな顔付きになっているんだろうと、自ら苦笑。


驚いたことに昨日近所で稲刈りをしていた。もう米が取れるんだ。4ヶ月で・・・

なかなか実らない自分を仕事場でみつめるには勇気がいるもんだ。つい逃げだす、なかなか中に入っていけない。

2010年8月22日日曜日

The great jounrey


三遠南信展の豊橋展が8月25日(水)から29日(日)まで開催される。
会場は豊橋市美術館だ。二年前 星野真悟賞の公募に参戦して以来の会場で自分的にはゲンがいいと思っているのだ。会期中には一度は行きたいな。

今回は浜松のときとは違う作品でやや大きい。土と人間、時間などを表現してみたかった。

さてさて どういうふうに捉えていただけるか・・・・ 

2010年8月12日木曜日

夏のドライブ



なかなか長野県南部から愛知県や静岡県に貫ける道路のイメージはつかみにくい。近年三遠南信道として自動車専用道路が着工になっているが遅々として進まない。


同じネーミングで三遠南信アート展という三地区(河:豊橋、州:浜松、信:飯田)の選抜作家展が開催されている。その浜松展の会場が天竜地区にある秋野不矩美術館だ。とてもユニークな建物で建築家の友人から一度は見に行くべき建物と聞いていたので、たのしみにしていた。


さて、道順だが複雑だ。地図を見ると国道152号線でまっすぐだ。しかしこの国道は昔から県境でつながっていない事で有名だ。国道なのに!少し道のりがあるが151号線で佐久間ダムを回りこむイメージで行こうと決めた。一日かけてゆっくりいってこよう。


せっかくだからと家族を誘うが都合が悪いという。 平面領域展のメンバー原さんと行くことになる。(原さん すみません。この旅は原さんなくしては成立しませんでした。)


素晴らしい美術館だ。壁が厚く絵を掛けると壁が喜ぶ感じだ。ただ壁のほうが強かったり・・・


われわれの展示している市民ギャラリーは残念ながらその壁ではなかった。あんな常設展のような空間で展示してみたかったな、と思う。


夕方帰路に着く。近くにある秋葉神社をお参りして行こうという流れになり(まだゆったりとした気持ちであった。)車は参道に入った。山の頂上の神社は立派でなんとも神々しい雰囲気だったが遠かった。国道152に戻るともう薄暗くなっていた。


旅の終わりをイメージしながら車をとばしたが、神様というのは ついでにお参りするものではない。


しっかりとバチが当たった。152号線から佐久間方面に入る交差点をそのまま進み気がつけばもう県境近くまで来ていた。152は青崩れ峠が通れない。真っ暗な山道の兵越峠越えということになる。『珍道中だね』と、


二人は苦笑いだった。


それから15分ほどして、ほとんどない対向車と避け合いになった。 『狭い道なのにやだなー・・』その瞬間私の車が側溝に脱輪した。もう苦笑さえ出なかった。携帯の明かり頼りの暗闇で泥まみれになり車を溝から出したのはそれから一時間はたっただろうか。


山道で鹿の眼の光を見ながら今度は本当に家路についた。夜10時を回っていた。


2010年8月1日日曜日

魚田一人展


地元アートハウスにて魚田一人展が開催されている。作品に対する突っ込んでいく気持ちがよくわかるので好きな作家の一人だ。なかなかあそこまで突っ込んでいくのは大変だろうがなんか幸せ感も感じる。忙しい人なのでなかなかあって話せなかったが一年ぶりに近況など話しが聞けた。展示がちょっともの派的な匂いを感じるところがなぜかうれしい。

2010年7月25日日曜日

グレートジャーニー(アフリカをリスペクトする)


Felaやバスキアについて考えるとやはりアフリカだ。おおらかで『表現とはなにか?』という原点があると思う。それから脱ヨーロッパでもある。脱近代でもある。

しかしもうあのころのスパークから30年以上も時間は流れている。点火されたエネルギーはいったい何処に向かって行ったんだろう・・
答えは自分の内にあるのだろうか?


南アフリカでサッカーW杯が開催されアフリカは以前のような悲惨なことばかりな大陸ではなくなりつつある。もっと眼を向けていきたい。なんといってもわれわれ人類の発祥の地なんだから。

2010年7月19日月曜日

夏は Fela Kuti を聞く




不思議なくらい大きく気候が変わる。咲き遅れたアジサイが強い日差しにみずみずしさを失う。いよいよ梅雨が明けたのだ。


仕事場で音楽をかける。ランダムにCDをセットするといきなり熱いアフロビート 体が自然と音楽に乗る。 フェラ クーティ。しばらくぶりだったけど私にはいつも新鮮な音楽だ。出会いはこれもまた30年前のイタリア、ペルージア。“テラッツァ”という住宅街にある野外ディスコだった。テラスという意味が示すとおり城壁の上にあって昼は見晴らしがよかった。夜大音響で音楽をかけるのだから近所迷惑は極まりなかったと思う。


そこで突然フェラがかかったのだ。驚いた!今まで聴いたことのない音楽だった。私には野生的でエネルギッシュでそれでいてどこかやさしくて一気に好きになってしまった。


帰るときそのレコード名を聞いたけど feraなのか fira なのかfela なのか全然わからなくて しまいにどんな音だったかも怪しくなり探すこともできなかった。


その後何かのきっかけでアカデミアの友人がテープにとってくれて、私のローレーション音楽になった。夏になるとFelaは間違いなく私を元気にしてくれる。

2010年7月14日水曜日

サッカーファン


一ヶ月のテレビ観戦が一段落した。スペインが(表現が正しいかはさておき)爽やかな感じで優勝した。きっとスペインの町々は大騒ぎだろう。私は単なるサッカーファンなので詳しくはよくわからないが、スペインのパスサッカーはとても気持ちがいい。Jリーグのジュビロ磐田のサッカーがかつてそんな感じだったので好きで何度か磐田まで見に行った。試合前のアップで選手たちが数人でボールを追い掛け回すところを見て子犬がじゃれあっているようでほほえましかった。(プロの選手に失礼かな。)きっと仲がいいんだろうなーと思った。そんな気持ちよさが優勝したスペインにあるように 朝方のテレビを見ながら感じた。

フォワードの超人間的なシュートを見ていてスゲーナーと思うと同時に こんなエゴなやつと一緒に仕事するのきっとヤだろうなーとも感じてしまう。そんなサッカーのトレンドが変わるかなー。

1982年のワールドカップがスペインであり ドイツ、イタリアで決勝戦が行われた。当時さしてサッカーファンではなかったがペルージアで友人とラジオを聴いていた。そしてイタリアが勝つと同時に車のクラクションやらクラッカーが鳴り出した。ほんとに町が騒然となったのだ。なんだこれは!と外に出てみたら町は赤と緑と白の布をまとった人々が大行進をしていたのだ。

2010年7月4日日曜日

情緒的なこと


正直に書きますが、この歳になっても会社勤めは好きにはなれない。ムシムシする季節は心もムシャクシャしてただただ5時になるのを待ってしまう。情けない。そんな気持ちを抱えて家路に向かうと 通勤路の川沿いの道に合歓の木が咲いていた。

まいった!気持ちの中に詰まっていたものがスーッと解けていったように感じた。そういえば去年もこの時期この木に癒されたっけ・・・・

いかにも梅雨の時期に咲く花のように繊細でホワーッとしている。直射日光に当たったらまいってしまうだろうな、と思わせる。なんか弱い心にとてもよくフィットしてくれる気がする。

このところ熱中しているサッカー観戦にはない情緒感だ。

2010年6月26日土曜日

第8回 新耀展


有楽町の交通会館2Fで今年も新耀展が明日から開催される。

代表の原弘さんが牽引してくれて毎年この時期に開かれる。私はなかなか出かけられないので迷惑をかけていると思う。にもかかわらず昨年の私の個展の際は 会の原さん 氏家さんがオープニングから二次回まで来てくれて とてもありがたかったのだ。それにしても銀座のオープニングはいつも月曜日が大方だ。ナントカならないかなー たまには顔を出したい。

新耀展;  6月27日(日)~7月3日(土) 東京交通会館2F(有楽町2-10-1)tel 03-3215-7962

2010年6月19日土曜日

W杯テレビ観戦雑記



このところご他聞にもれずサッカー観戦に時を奪われている。テレビではダウンジャケット姿を見かけるが向こう南アは初冬ということだ。


しかしこちらはまったくもって憂鬱な梅雨時。いつもこの時期思うことだが、頼りなげだった田植え直後の苗が 株分けが進んで一握りほどに育っている。なのに 人間のほうはなんか鬱々とした後退局面に入っているような気になる。昔 知り合いのヨーロッパ人がこの時期の日本ははとても暮らしにくいと言っていたが 同意せざるを得ない。体も動かないし頭も理性的になれない。


サッカーで屈強な身体をもつヨーロッパ人達を見ているとこんな気象条件では育たない体だなーと思ってしまう。・・


さて ここで陶芸家の水野英男氏から聞いた話を思い出す。焼き物で有名な信楽(もしかして違う地名だったかも知れない。恥ずかしながら肝心の地名が定かでない。)は その昔その土地の土ではうまく焼成できなかったという。試行錯誤の上焼成温度を当時の考えでは非常識なほど下げてみた。するとやわらかな風合いの焼き物ができたという。


この湿気むんむんの季節がわたしたちになにを与えてくれているんだろう。ゆっくり考えてみようと思った。

2010年6月13日日曜日

三遠南信アート展


刻印【marking】;価値観の分水嶺にたつ今

浜松・豊橋・飯田3地区各々10人の作家たちが

自身における制作の内側と外側について語っていきます

 浜松のギャラリー風蘭のオーナーが中心となってもう10年くらい前からこの三遠南信アート展が開催されている。三遠南信とは三河、遠州、南信州という三地区をさしていて昔から天竜川や古道秋葉街道を介して文化が交流したエリアをいう。“現代美術と地方 または歴史”といった現代的なテーマが私には気に入っている。第一回からこのアート展に呼んでいただきうれしく参加させていただいているのだ。この夏からその巡回展がありぼつぼつ本腰を入れなくてはなるまい。

赤土をふるいにかけて・・・ 

2010年6月4日金曜日

狸丸





私の地元飯田市伊豆木には小笠原屋敷という文化財がある。礼法作法で有名な小笠原氏の住んだ屋敷で中世の雰囲気を今に伝えていてなんとも情緒がある。十年ほど前資料館なるモノができて 長年地元の文化を愛し保存を訴えてきた人々にはとても喜ばしいことだった。その建物は小笠原氏の血を受け継ぐ さる有名な建築家の設計によるものである。このごろ新聞でその建築家がヨーロッパで賞を受けたということを知った。
私は少し釈然としないおもいを抱いた。というのは、この資料館が本家の屋敷を喰ってしまっているように感じるからだ。ほんとに屋敷を愛しているんだろうか・・・


<毎夜厠で 殿様のお尻をなめる何物かがいた。 ある夜 殿様は刀できりつけると斬られた前足を残して逃げ去る狸を見た。その後 親の足を返してほしいと泣く子ダヌキの声が夜ごと聞こえるようになったという。>


子供のころ祖母から聞いた小笠原屋敷にまつわる“狸丸”という話だ。


こんなストーリーやらが渦巻く中世のお屋敷を白日の下 バサッと刀で斬るような 斬新な建築の資料館・・・私はあまり好きにはなれないかな。

2010年5月26日水曜日

ドローイング


白い紙にペンでタッチする瞬間はどきどきするものだ。それがドローングの緊張感に繋がるのだろう、と思うが 描くときはかなりしんどい。一タッチごとに表情が変わる。その表情を一タッチごとに取捨選択する。一タッチに喜び一タッチに落胆する。トータルな方向性があるわけでもない。なんとなく終わりにするときもあれば よし!と筆を置くときもある。

一つのことを短い時間に言い切る、ということは意味のあることだろうとドローイングをはじめてみた。三日坊主にならなければいいが。。。
左の絵はそんなドローイングと立石の風景が合体してできたと言えそう。

2010年5月15日土曜日

田植え


春先 いやに暖かだったので 今年は少し早く籾を蒔こうと父親と相談した。わたしは素人なので父との相談は欠かせないのだ。しかし今年の天候は予想とは違ったようだ。このところ寒くて花桃の時期には雪が降った。驚いた。結果 稲の苗は丈が不ぞろいやらで思うように育たなかった。そこからの工夫は恥ずかしながら私には難題で父に任せた。天候をにらみながらいろいろ手を打っていくノウハウは奥が深そう・・・

とにかく 田植えを始めてみた。10cmばかりの植えられた苗はなんとも頼りなせ気だ。風にそよぐ様子は寒そうに震えているようにも見える。

この時期は忙しくて気が焦ってしまうが 田で体を動かしていると落ち着くのは不思議だ。

2010年5月4日火曜日

薫風



里山の新緑をなでるように風がふきそれが画廊の窓から中に入ってくる。大きく深呼吸をする。いい季節の展覧会だ。


ここは古い歴史のある地区でかつて立石村といったそうだ。南向きの斜面に仁王門を持つ立石寺がありここを中心に村が開けている。といっても周りは山々だ。鶯の鳴き声が聞こえてくる。


そんな一角の小高いところにこの画廊“南無”はある。もともとオーナーのご両親がお住まいだった家を数年前画廊に改築したそうだ。都会の喧騒とは無縁の空間。


私はこの地区のすぐ隣の伊豆木という地区の生まれなので地元人そのものである。当然子供のころからの知り合いが来てくれる。うれしいやら気恥ずかしいやらといったところである。


この展示のため私はスケッチに何度か立石にきたが風景を絵にしてみたかったからだ。しかし 抽象的な画面に造形的な要素が入ると瞬く間に自由な空間が萎縮してしまうような気になってしまう・・・


結果についてはまだよくわからないというのがわたしの今の思いか。


きのう小学校時代の担任の先生が見に来てくれた。御歳83歳とのことであったが矍鑠とされて元気そのもの。思い出話が夢のようであった。


2010年4月22日木曜日

Three Persons Show 南無



以前 話題にした私の地元の展覧会がいよいよ開かれる。そのDMが少し遅れて出来上がった。自分の作品の進行状態はもっと遅れているがDMが励ましてくれる様な気になる。すこし明るい気分だ。


さて、内容は次のとうり。多くの方々にご高覧賜りたい。


場所;長野県飯田市立石42 tel 0265-27-4783 睡蓮庵ギャラリー[南無] オーナー携帯 090-2646-5225(伊東)


期間;5月1日(土)~5日(水)AM9:00~PM5:00 最終日AM12:00まで


後先になったが、今回は版画の今村由男氏 陶芸の土屋千恵さんと3人での開催となった。


いい出会いになるといいなと思う。

2010年4月15日木曜日

東勝吉の風景


ぱらぱらと捲っていた本の中におもしろい絵を見つけた。小学生がおじいちゃんの肖像画を描いたのかと思ったら、老人の自画像であった。ナイーブなとてもおもしろい絵で興味がわいた。その老人は東勝吉という人で、80過ぎから絵を描き始めたらしい。それまでは木こりだったそうだ。九州の湯布院の老人施設の一室で描き続けた絵は不思議で素晴らしいものばかり、という。早速ネットで見てみた。
風景画の草木がとてもおもしろかった。高齢だから、そんなに風景の現場には通えなかったと思うが、丹念に草花を描き起こしている。それがとても素朴で自由でいい感じなのだ。省略もいい。価値観がおもしろいのか?
展覧会を控えた私にはかなりショックなものだ。といのは絵の原点のようなものを感じるから・・

2010年4月6日火曜日

名刺を渡せないッ。


春のうららか気分で私たちは出かけた。このところの寒さで桜の開花は関西も伊那谷も足並みがそろってしまったのか 行く先々が咲いていて気分がいい。

今年の初め関西に住む知り合いの医者が開業15周年のパーティーを開くから来てくれとお誘いを受けていたのだ。もともとは妻の学生時代の友人がその先生の奥さんということで、私の個展にも何度か来て頂いている。お祝いの気持ちに新しい人脈開拓の野心も手伝っていくことを決めた。妻も娘も服を新調したようだった。

さて会が始まると 医学博士だの 教授だのそうそうたる方々の祝辞が始まった。確かテレビにも出たことのある医学博士もいた。私は気おくれしてきた。もう来たことさえ後悔し始めた。関西の私立某有名進学校の校長、OBも楽しそうに挨拶していた。あの先生はこの学校の出身だったのか。わたしは、たくさんポケットにいれた名刺を指で感じながら、せめて一枚でも名刺交換しようと半ば悲痛な気持ちになっていた。

乾杯がおわりアルコールが入り始めると もう私は、名刺交換に出て行く勇気はなくなっていた。赤ワインはポリフェノールがいいんです、とか訳のわからぬことをいいながら近くの方と杯を酌みかわすばかり・・なんて社交性がないんだろう!

隣を見ると 春の装いの我妻がいすに腰掛けコックリ コックリと舟をこいでいた。

2010年4月1日木曜日

Pane D'oro


飯田市の江戸浜通りにあるイタリアレストラン“パーネドーロ”に私の絵を展示させていただいた。レンガ壁のなかなか雰囲気のある空間なので負けてしまうか心配だったが、なんとかおさまったと思っている。 赤土色で統一された感じで まったりとした空気感が演出できたかなーと、ご主人の丸山氏にも言っていただいた。うれしい。

2010年3月27日土曜日


新聞で中村不折の書を見る。なんともおもしろい。

こういう書は先生からは教えてはもらえないだろう。絵もそうだ。おもしろいなーとか思うものは習えるものではないものが多い。

盗作という概念がある。しかし、昔の手習いは、先生の模写から始まる。いわば師から盗作である。が、盗作という罪にならないのは師弟関係の中にいるからで 独立した個人の作品となると微妙なことが起こりうる。

なぜオリジナリティーが尊いのか もっと考える必要があると思う。 

2010年3月19日金曜日

シュクラメンから展覧会


昨年暮れの忘年会のお土産でもらった緋色のシュクラメンがもうだいぶ色あせて元気がなくなってきた。鮮やかな色が気に入っていたのに。


この鉢をもらったとき、忘年会の主催者I氏に画廊南無での展覧会を打診された。緋色のシュクラメンを抱えた私は『ハイ』と答えてしまった。気の弱さで後先も考えず承諾してしまったから今になって困ってしまっている。なぜなら、画廊は私の超地元で、しかもテーマは風景。 私にはなかなか難題なのだ。


私の気が弱いのは実はDNAによるものと思われる。

(近所の観音堂の祭事のとき聞いた話だが・・)およそ四百年前信州下伊那三穂の地に小林某なる人物が入り住み着いた。しかし心悩ます事柄が彼にはあった。それはこの地を治めるお殿様が小笠原氏であり その殿様と【小】の字がカブッテしまっていることだった。熟慮の末 彼は小の字を外してしまった。なんと小心な・・

かくして 子孫の私は林を名乗り、気の弱さも受け継いでいるのである。

さてさて 五月の連休には画廊南無での展覧会だ。


2010年3月14日日曜日

オープニングCAF.N横浜展




飯田からは中央高速バスで横浜まで乗り換えなしでいける。但し五時間!なんとなく軽い気分での小旅行は出足から我慢が要る。軽い気分の理由は横浜という浪人時代に一時期過ごした土地のせい。



バスの中で少しあのころを思い出す。今回の展覧会場はかつて塑像教室に通ったレンガ色の建物だ というのは前回書いたが、思い出深い。作っていた塑像が時間切れで石膏取りができなくなり 他日友人に助けてもらい完成させたのだが、確か真夜中までかかってしまった。教室に飛び散った石膏をきれいに掃除し終えたら明け方近かったような気がする。よくあんな公共の場でそんなことができたのか今思い出しても不思議だ。



さて 昼近くに横浜市民ギャラリーに着くともうほとんど飾りつけは終わろうとしていた。幸い自分の作品は運搬業者が組み立ててくれてあったので壁に掲げるだけであった。また 知らない人ばかりと思っていたら昨年の画廊るたんでの個展に見えてくれた方たちがちらほら見受けられ一安心。



夕方からはホテルでオープニングパーティーが催され 気さくなメンバーのかたがたと ビールをおいしくいただきました。秋には埼玉でCAF.N本展が開かれる。うれしくもあり気が引き締まる。



2010年3月6日土曜日

CAF.N横浜展


横浜で開かれるCAF.N展に作品を出すことになり、もがいているがもうタイムアップだ。初めて参加させてもらうので 小心者は今が一番心に負担がかかる。・・・

明日佐川急便に持って行って 天に祈るのみ。

会場; 横浜市教育文化センター3階A 横浜市民ギャラリー (関内駅前のレンガのビルだったかなー

浪人のころ ここの塑像教室に行った思い出がある。)

会期; 2010/3/12(fri)~3/17(wed) 10:00~18:00 初日13:00オープン、最終日16:00クローズ

主催; CAF.N協会http://www.caf-n.com/

約50人作家が出品するようだ。・・・・


2010年2月27日土曜日

田中一村再考


画壇って何だろう?

花壇 ・ 雛壇 ・ 仏壇・・・

年老いた絵描きたちが雛壇に座っている文化勲章授与式的イメージで、ふるいな。

田中一村について 思い違いをしていたように感じて もう一度画集を見ている。“ゴーギャンのように南の島にわたり 絵を描いたが認められたのは死後で悲運の画家。”という程度の知識と『アダンの木』というわりと描写的な絵の印象だけだったが、なかなか示唆に富んでいる画家で驚いている。

まず勘違いのいくつか
1)デカタンの画家ではない。(酒は飲まなかった。また行き当たりばったりで奄美に行ったのではなく 千葉の家を売るなどして周到に計画していた。わたしも絹本に描いてみてわかったが 綿密な写生や感情を抑える力がないと絹の上に絵はかけない。油絵とはちがう)
2)描写的な絵もあるが南の自然の不思議さおもしろさが独特な世界を作っている。
3)貧困や孤独を抱えての死であったが決して不幸な死ではなかった。晩年は自分の作品に対する確かな自信が窺え、奄美に行く前の中央画壇に対する憎しみのような感情は超えていた。

絵描きは絵の評価にとても敏感だ。でも評価というものは 今やさまざまだ。昔のように偉い先生たちが決めるものじゃあない。偉い先生たちに評価を任せちゃあ 画壇とやらが復活するだけだ。プチ評論家があちこちでいろいろなことを言えばいい。そしてちょっと聞いていいとこ取りすればいいのだ。

大事なのは 自分の絵に自信を持って描くこと。田中一村が奄美で晩年描いたように。 

2010年2月20日土曜日

Marco Ferreri


フェリーニの映画のはずが 知らない映画監督だった。“最後の晩餐”というタイトルがしめすとうり重たい映画だった。4人の社会的地位もある中年男たちがある屋敷に集まり文字どうり最後の晩餐をくりひろげる物語だった。見終わったら胃もたれがした。

男たちが次々死んでいき 途中で加わった太った女だけが無表情に生き残る・・・


この映画によく似たパゾリーニの“ソドムの市”というのを思い出した。こちらは第二次大戦末期北イタリアを舞台に敗走直前のナチス幹部たちが欲望の限りを尽くす物語だ。こちらの終わり方がややよかったような記憶がある。ナチス幹部たちに犠牲になりかけ最後生き残った少年二人がラジオから流れる音楽に(スローなジャズだったか?)あわせ踊る。そして故郷の村に帰ると言う。

余談だが、私は公開当時 そのころ親しかった女友達とそれを新宿に見に行った。混んでいたので前の上映が終わる少し前に中に入り椅子を確保ようとした。その時 刃物で眼を切るシーンが大写しとなった。私は失神した。・・


その後の仔細はよく覚えてはいない。ただ映画のストーリーを覚えているところを見ると映画は見たとおもう。そしてその女友達とはそれきりだったことは言うまでもない。


2010年2月14日日曜日

現代の創造展


今年も現代の創造展が始まる。この地域の作家(日本画、洋画、彫刻、工芸、書)約百人が一堂に会しての展覧会で 毎年この時期に行われる。第10回目となるといろいろと問題を抱えての展覧会だ。昨年 友人のU氏が出品して新風らしきものが感じられたが今年は参加しなかった。少し残念だった。全体的にマンネリ感がでてしまうのは仕方ないことなのか・・・

多くの人に見てもらいたいものだ。

2010年2月6日土曜日

Federico Fellini







ここに掲げた3枚の写真はイタリアの映画監督フェデリコ フェリーニのデッサンだ。笑っちゃうほどおもしろい。私の好きな映画『アマルコルド』にでてくる登場人物で シーンを鮮明に思い出だしてしまう。彼は 新しい映画のキャラクターたちを必ずスケッチしたそうである。アイデアの化身を逃がさないために。・・・
アマルコルドは A me ricordo (私は覚えている=イタリア語)の彼の故郷の方言だそうだ。彼がすごした 思春期の印象的な故郷での一年をとても豊かに表現していて忘れられない名画の一つだ。
彼は映画の仕事につくころローマで駐留のアメリカ軍の兵士向けに似顔絵描きもしていたようで 絵が達者だ。少し欧風まんがっぽいところが、いかにも若者がアメリカ兵を相手にひともうけしてやろうとした軽妙さを感じる。ユーモアのある絵を漫画っていうのかな。

彼の 深刻になんて絶対にならないこの明るさ。これはラテンの血ゆえなのか? とても魅力だ。

彼の作品で『最後の晩餐』が12日に飯田で上映されるそうだ。見に行かなくては。