2011年12月31日土曜日

Sofia の画廊にて

三日目の朝 私たちは今回の目的地ブルガリアに向かう。昨年の今頃はブルガリアがいったい何処にあるかさえ知らなかったのに、今は旅の常連のような顔をしてソフィア行きの飛行機に乗り込むのだ。さすがに日本人は私たちだけのようす、クリスマスに家族を訪ねるのか機内はぎっしり満席だ。東に飛び立った機は2時間足らずでソフィア空港に、着陸すると客席から拍手がおこった。思わず私たちは微笑んだ。知らない国に入る前に少し緊張が和らいだことを感じた。
白髪でも若々しい感じの紳士、レッセドラ画廊のギオルギさんが 私たちを迎えてくれた。いよいよ一年勉強した英語が活躍するかと思いきや、挨拶から先が何も出てこない、にやにやするしかないのだ、まったく!・・。

次の日はいよいよ『寿司パーティー』だ。15日から始まった第二回Lessedrea 国際ペインティングコンペ展の審査員のためブルガリアに来た私を第一回受賞者として祝う会を企画してくれたのだ。とは言え寿司はわれわれで作らなければいけない。親子3人昼から大忙しだ。ご飯を炊いて、きゅうりを切って・・・20人分ぐらいのつもりで始めていると ギオルギさんが100人ほど来そうだと言う。蒼ざめたが、冗談ではないようだ。ギオルギさんの奥さんも巻き寿司作りをよく知っていて手際よく働き始めた。女房と娘が丁寧に藤の花のように細巻きを盛り付けている間に 奥さんはぺっとりしたご飯をのりにくっつけて 卵きゅうり巻きを2~3皿作ってしまった。驚くべき臨戦態勢。
6時を過ぎると画廊は人が入り始めあっという間に身動きが出来ぬほどに・・何を話したか、何を話せたのか 名刺交換したり 自分の絵を説明したり 海苔の説明をしたり なにやらエキサイティングなひと時であった。気がつけば6皿あった大皿の寿司は空になっていた。
人の退けた画廊で ギオルギさんと眼を見合わせたら 充実感を漂わせた表情で 握手をしてくれた。  みなさん ありがとう。
*ポスターは Hayashi Masahiko Sushiパーティーと書いてあるらしい。

2011年12月29日木曜日

友を 遠方より訪ねる

アリタリア航空の機内に乗り込むとやっと出発の実感が沸いてきた。この一年いろいろな人に支えられてこの旅に家族3人が出られるのだ。なんと言っても 務め人にとって10日連続の有給休暇を取るのはやさしい事ではない。一年かけて上司が調整してくれたり、周りのひとが仕事を引き受けてくれた。そして行ってらっしゃいと言ってくれた。妻も同じだったようだ。娘の場合は担任が骨をおってくれたが、事前勉強はしっかりやらされたらしく 『もう勉強はしない』と断言しての旅立ちだ。
9900km 13時間は長い、機内でおいしいワインを飲んだくれて過ごそうと思っていたが 酔いがさめてもまだ半分も行っていなかった。・・・
アカデミア時代の旧友ヴィートがローマ空港まで来てくれていて懐かしい再会を果たした。予想に反して太っていた。15年ぶりだ。着ている服が赤かったらほとんどサンタクロースと言っていい風貌になっていた。でかい手で重いトランクを車まで運び、彼は私たちをフォリーニョの家につれて行った。
彼とは歳が同じで 当時あまりイタリア語の話せない外国人学生の私をよくいろいろな催しに連れ出してくれたものだった。いっしょに二人展もやったし、わたしの抽象画への扉を開いてくれたのも、彼だったと思う。
夜の10時をまわっていたが、家では妻のルチーアがクリスマス料理のトルテリーニインブロードを作って待っててくれた。彼女もあのころからの友人だ。 イタリアンママになっていた。子供が3人、下の子は双子で14歳、うちの子より1つ上だ。彼らはそのうちパソコンの翻訳サイトでコミニュケーションを取り始めた。なんか微笑ましく嬉しかった。いろんな話をした。私たちはいままであまり手紙を書かなかった。だから、話すことはいっぱいあった。わたしの錆びかかったイタリア語も滑らかになった。なんて感動的な夜だったことか!
気がつけば 時計はもう2時だった。

*彼の部屋に掛けてあった当時のイラスト;左がVito、中央が私、奥の穴の中にLucia、’80にMoreno(私の右隣)が描いたものだ。

2011年12月27日火曜日

Bulgariaに旅立つ

今年の総まとめの様なつもりでブルガリア、イタリアに旅行することになった。しかも家族3人で・・・。海外旅行などホントに久々で、パスポート取得さえどうしたらいいのかわからなかった。夏が過ぎるころから夫婦揃って心配事だらけの日々だったが、ナントかカントかローマ行きの飛行機に乗り込んだ。!
予定はイタリアでアカデミア時代の旧友を訪ね その後ブルガリアのソフィアにむかう。Lessedra 画廊のゲオルギさんが迎えてくれる手はずだが 未だ会った事もない人のだ。私のpoor English が果たしてどの程度通じるのか・・・
それに私の心配事はローマだ。むかーしむかーしまだイタリア初体験のころ、ジプシーのこどもの群れに囲まれ その汚い小さな手がポケットに掛けられたとき、 びっくりして追い払う声も出なかった。私の密かな心の傷だ。
ともあれ、賽は投げられた。行ってまいります。12月吉日

2011年12月3日土曜日

ブルガリア版画の展示と販売

昨日から 喬木の雲揚堂店主の湯沢氏が始めたギャラリー吾亦紅(WAREMOKO)で展示会がスタートした。このギャラリーは長い間飯田の中心街の一角にありながらシャッターがしまったままであった店舗を氏が借り受けてオープンしたものだ。名前は吾亦紅・・・どこかで聞いた気もするが まずはめでたい。
さて そのオープン企画的なものがこのブルガリア現代版画展だ。版画家の北野敏美氏が国際展で交流していたブルガリアの作家たちの作品が主なもののようだ。小品ながらなかなかおもしろいものが多い。ぜひとも多くの人に見てもらいたいと思うし、買っても頂きたいものだ。(ただ 細かいので老眼鏡は必要です、蛇足ながら・・)
私も昨年世話になったレッセドラギャラリーの関係で売り子の応援に行くことにした。自分の絵はなかなか売り込めないが 人のは出来そうな気がする::::?
今夕と明日昼吾亦紅に詰めますので 近くにお寄りの際にはひやかしに来て下さい。
ギャラリー吾亦紅     飯田市銀座スクランブル交差点            <湯沢雲揚堂>

2011年11月26日土曜日

Van Gogh

バスはかなりの田舎を走っていた。午後ももう遅い時間になり 僕たちは内心焦っていた。このバスで行けばよいと土地の人にいわれて乗ったのだが、進めども進めども目的地には着かない。だんだんその言われた言葉さえ理解できていたのか心配になった。僕たちは初めて訪れたオランダであまり聞いたことのない美術館を探していたのだ。
先日テレビ欄で クレーラーミュラー美術館の番組を見つけ 30年前のT君との旅行を思い出した。森の中の小さな美術館でゴッホのコレクションで有名だが、当時はまだまだマイナー感はあったと思う。閉館ぎりぎりにたどり着き、もう入れないと言われだが強引に入った思い出がある。当然中は僕たちだけで、小さな部屋に どれもこれも有名な作品ばかりががさりげなく飾られていた。
その作品たちは、その旅の中で 最も鮮烈に心に残る絵たちだった。
ゴッホの骨太な造形力と、一タッチ一タッチが彼の心と直接繋がっているような情感表現が 気の遠くなるような天才のスケールを感じさせた。
このコレクションはゴッホの死後たった20年後に造られたそうだ。クレーラーミュラー婦人がゴッホの絵をこよなく愛したのだ。『こんな感じ方があるんだ!』と言って感動していたそうだ。ゴッホの絵は本当に孤独を癒してくれる。
たった7年ですべての絵を描き、死んでいったゴッホは20年を経て復活したと言えるだろうが、もし生きていれば 57歳、クレーラーミュラー婦人とも出会えたのに。

2011年11月15日火曜日

3.11とCAF.N

CAF.N展を見に浦和に出かけた。とても驚いたのは、東日本大震災関連をテーマにした作品が多かったことだ。飯田に住んでいるとそういう部分での発信は多くはなかったのが・・・。(日本画家吉川氏の屏風絵の発表を新聞で知ったくらいか)
私も今回 直接的に震災を作品にしようとした訳ではないが 人智を超えたところにある大きなものに対する畏怖を表現したかった。ダークグレイの色調で暗い感じのできだった。
会場に入ってみるとダークグレイの絵がこのにもそこにもあるのだ。・・・・・
今回の作品に自信がなかった私は 美術館に入る前 元気付けにとひとりで焼肉屋に入りラム定食を食べた。パワーアップして批判を受けようと思ったのだ。
しかし意外にも自分の言いたかったことが伝わっていた。  嬉しかった。
にんにくバリアーを張って臨むほどではなかったのかも。

2011年11月5日土曜日

2011CAFネビュラ展

CAF.N展が来週から埼玉近代美術館で始まる。この展覧会は1978年に埼玉美術の祭典としてスタートし 現代美術のコンセプトと表現の問題を社会に問う運動として展開してきたという。現在は地域とアート、そして国際交流をテーマにさまざな地で展覧会を開催している。
昨年春の横浜展から私も参加していて、しっかりした主張のある作品を展示したいとつよく願っている。
しかしあまりうまくいってないかもしれない・・・苦戦中だ。
コンセプトが大事であることは70年代、80年代のアートを源流にしているこの展覧会にとって肝だと私は思っているし、そうあってもらいたい。70年ころのやたら難しくて、重暗くて、気難しいアートがいいとは全く思っていないが、その後訪れた『おいしいアート』やアニメアートでは人間の痛みや、挫折は表現できないと思う。
東日本大震災、原発事故、のあと 私たちは何を言うのか?参加作品を見るのも大いに楽しみだし、
自分の姿勢も問いたい。http://www.caf-n.com/

2011年10月30日日曜日

地元の作家2人

飯田美術博物館で飯田作家の室内画展が行われている。正宗得三郎と山本弘の数点がメインの小規模な企画展だ。しかし絵と言うものは不思議とマスメディアではうまく伝わらないところがあるから地方の独自な展覧会は その地には大いに意味がある。(名画はたぶん違うだろうが、)まわりのストーリーが意味を補足し、魅力を増す絵は実際多いと思う。
その点この二人は多くの逸話を残しているので、絵を見る興味がわいてくる。
正宗得三郎は私の実家の伊豆木地区に戦時中疎開していた作家で、作品が多く残されているようだ。地元の公民館の入り口にこともなげに飾られていたが、(お宝意識がめばえたのか)今はどこかに仕舞われてしまった。彼は二科展の重鎮であったが 戦争が終わった時 伊豆木にゆっくりと構えていて失敗した。目聡い若手の東郷青児が、全員に連絡がつかなかったと言う理由でベテラン作家を除き二科展を勝手に再開してしまったのだ。結果、正宗は二紀展を創らざるをえなかった。
マチィス風の静物画が展示されてあったが、富岡鉄斎が好きだったという彼はいったい何をめざしていたんだろう。なんとなく画家って感じ・・・・が否めないのはわたしだけ?。
山本弘、この地では有名なデカタンの画家だ。今回mmPolo氏をモデルにした作品があると聞いていたので、どうしても見に行きたかった。山本の絵はこの展覧室の中ではやはり一際 感情表現があって入りやすい。ただ激しいので拒否感が出る人もいるかもしれない。見たかった絵はmmPolo氏との関係が濃かったのを物語るいい絵だった。
地元にまつわる展覧会をまた開いていただきたいとおもう。

2011年10月22日土曜日

道草主義

お金をめぐるデモが世界各地で起きている。ニューヨークでは若者が富の偏在に疑問を投げかけているし、ギリシャではスローな暮らし(南欧の文化か?)が金の裏打ちなしではできない事に怒っている。世界はいつの間にか単一の価値で覆われていっている。嫌な事だ。
昨日 飯田のラジオからたまたま流れてきた話題で ドライブにまつわる男女の意見がおもしろかった。忙しい私たちはとかく効率優先だ。ドライブに出かければトラブルなく早く目的地に着きたいものだ。道草で 到達できないなんて考えられない。でも、そこでの女の人の意見は新鮮だった。途中で景色が素晴らしかったら、戻ってみていこう。素敵な店があったら寄っていこう。結果、目的地につけなくてもぜんぜんOK! と・・・。
そこまで、腹くくって生きられないにせよ、“要領よく行こう”で頭の中がパニックになって苦しんでいるんだから たまには真逆で行って見よう。爽快だよ。きっと。

2011年10月15日土曜日

コンプレッサー

勤めている会社の健康診断が数日前あった。この歳になると悪いところばかりなのでとても憂鬱な日だ。とりわけショックだったのは2キロの体重増だ。・・若い女性じゃないんだからそんな感想ないだろう、と思われるかもしれないが、事実そう感じた。(肝臓値や血糖やもろもろの問題を背負っていたとしても・・)
夏まで個展やグループ展が続いたから少しゆっくりしようと思ったとたん全く意欲が減退してしまった、と言う話は前々回書いたがそれが数値になって表れた訳だ。
忙しさから開放されたら心が喜ぶかと思ったら以外に空虚な日々だった様に思える。夕方ワインのビンに手がでるし 食べる量も増えた。 散歩もあまりしなくなってしまった。どうも動物園でボサーッと寝ているサルのように目がとろーんとしてきていたに違いない。
意欲とは 心の中のコンプレッサーがイロイロ集めて圧力を高めていくのに似ている。そして高まった圧が体を動かす。体を動かすのはカロリー計算できるエネルギィーだけとは限らないのだ。
そこで 『イロイロ集めて圧を高めるコンプレッサー』を考えたい。このごろの私の場合 2キロ増⇒動物園の毛の抜けかけた太ったサルの黄色いトローンとした目のイメージ⇒自分の虚しさ⇒何とかしなきゃー⇒散歩しよう!。と言った具合か・・・
昔 親戚の子が登校拒否になったことがあった。自分の部屋から出るのも辛いようであった。彼の意欲はどう回復して言ったのだろうか・・・クラスの子とのもめごと⇒友人たちから孤立⇒孤独感⇒受験の失敗⇒絶望感 ホントに辛そうな日々であったようだ。2年近くの時を経て彼は美容師の学校へ自分の意思で行った。【何とかしなきゃー】が育ったのだ。そして今は美容師として意欲に溢れた暮らしをしている。

2011年10月8日土曜日

鯖の寿司

10月になると浜で鯖の値段が上がった、と言う・・・(?)。
海から遠く離れたこの南信州の山村で 鯖の寿司を家々で作って神様にお供えするお祭りがこの時期行われる。私の実家のある伊豆木地区の風習だ。
たしかにこの地区に住む男たちはしめ鯖が好きだ。お酒の席には必ずと言っていいほどしめ鯖の皿(スビテと呼んでいる親しまれている)が出てくるのだ。私の母も毎年鯖寿司をつくっては近隣に住む叔父たちに配る。私にも届く。 旨い旨いといただくのだ。
この風習は この地の領主小笠原氏によってもたらされたものだそうだ。この地の史家久保田氏によると2代将軍秀忠のころ小笠原長巨が京辺りから伝えたものだと言う。岡崎やら豊橋辺りから10月の祭りにあわせて伊豆木の住民は一斉に鯖を求めるのであった。あながち浜の値がつり上がったというのはうそではないかも知れない。
このうまさはDNAに染み込んでいるに違いない。なにせ400年代々食べ継がれているのだから。

2011年10月2日日曜日

ひさびさ

今年は夏から秋にランディングするのは難しかった。無気力者になった。昨年の暮れからハイペースで来過ぎたのか、9月になって急にガス欠状態になってしまったようだ。やっとやっと稲刈りをし一ヶ月が終わってしまった。もともとが怠け者なんだから勤勉者に生まれ変わったと勘違いしてはいけなかったのだ。ブルガリアから頂いた賞で少し勘違いがあったかもしれない。絵を描くと言うことは野山を歩くことに似ている。いままで裸足で歩いていたのに、靴をプレゼントされたら、歩きよくて嬉しくなった。その歩く喜びを噛み締めていればいいのに、知らず知らずにもっといい靴を、もっと楽な乗り物を、と求めていた。そしてペースを乱し ガス欠に陥ってしまったのだ。反省。
歩く喜びに戻ろう。金木犀を嗅ぎながらゆっくり歩こう・・・・。

2011年8月30日火曜日

飯田のアート(戦後から)



平面領域展も一昨日で無事終了しました。ご来場の方々ありがとうございました。さて、この展覧会とほぼ同時期に“展”という展覧会が飯田美術博物館の市民ギャラリーで開催されていた。とても評判のいい展覧会であったのでわたしも最終日に訪れた。小原泫祐という喬木出身の画家とその教室で学んだ5人の作家の展覧会でサブタイトルが『今、小原絵画との交錯』と言うものであった。



1963年に制作された『ねはん』という横180cm縦80cmほどの絵を見ていると 感性豊かな若者たちがアートの素晴らしさに触発され その道に入っていったことがわかるような気がした。



その若者たちとは 今村由男氏 木下以知夫氏 田中淑子氏 湯沢茂好氏 そして西村誠英氏であった。



この流は飯田のアートの出合としてとても興味深い。山本弘(画家)もたしか喬木出身であった。その辺りも踏まえて何とか飯田美術博物館の企画展として大きく膨らましてもらいたいと思う。

2011年8月21日日曜日

平面領域展Ⅲ











平面領域展が始まった。今回はみんな意欲的で正直びっくりしてしまった。一ヶ月くらい前の打ち合わせじゃあ、何にも手がついていないような事言ってたのに、蓋を開けてみればみんな凄い。私は完全に圧倒されてしまった。


いつもながら空間がおもしろくできたと思うし それぞれの持つテーマが掘り下げられていると感じる。ジャンルが異なる作品は制作の出発点が当然違ってくる。でも完成品の状態では全く境界がなくなって 見る人の心と二人称の会話に持って行けている。それがこの平面領域展のいいところと自画自賛・・・








2011年8月16日火曜日

専門家に口を出そう

盆休みで二晩続けて遅めのTV番組を見た。一つは福島原発事故に関して、事故の発生の可能性はアメリカの専門家の間ではもう何年も前から指摘されていたというものであった。福島の様子をTVで見ながらその専門家は水素爆発、そしてメルトダウンを予想していたそうだ。スリーマイルの事故以来最悪のシナリオも想定して対策を打ってきたアメリカと その情報の入手があっても技術レベルが高いからとの理由で、まともに手を打たなかった日本。・・・


阪神大震災の前 日本の土木技術は世界一と言ってたが 橋桁が折れて見事になぎたおれた高速道路の映像は鮮烈だった。ロボット技術だって たしか世界一と言ってたが福島の事故現場では何も出来なかった。たとえバイオリンが弾けても。


すべてが閉ざされた専門家たちに由来するような気がする。『素人が専門に口を出すな!』的な空気。
でも、一番大事な問題は素人にもわかる。(答は導き出せないが)

それは昔からだ。もう一つ見たTV番組の第二次大戦の参戦から戦線拡大までにも共通していた。戦争の方向性を決めるべき日本の中枢がこの戦争をどうもって行くべきか そもそもこの戦争にどういう意味を持たせるべきかさえ 議論して決めることが出来なかった。もちろん最悪のシナリオを想定をしてそれに備えるなんて、論外も論外、有ろう筈もなかった。


いま勤めている会社でも(地方の零細企業)出荷品に不良品が出ると それはもう大事だ。いつ作った品物で、ロット数はいくつで、原因は何か、なぜ流出したか、なぜ、なぜ、なぜ、とそれこそ尻の毛羽まで抜かれるような調査だ。


しかし閉ざされたところではものは隠される。よってたとえ国が滅びるような大きな因子も起きるまで手が打たれない。・・・日本は早くから専門性を持たせすぎるし、流動性を欠くのでは?

2011年8月11日木曜日

ハクビシン

10日ほど前から会社の駐車場にとうもろこしを喰い散らかした跡がたびたび残っていた。駐車場の隣は梅畑で その一角にとうもろこしが一列植えられていた。何本かは引き倒されたようになっている。これはたぶん奴の仕業だ。その後 大きなケージ状のわながその列の脇に仕掛けられていた。入り口がバネで、中の餌に触れるとバタンとしまる仕組みだ。奴らは賢い、こんなのに引っ掛かるわけがない。・・・
わたしも何年か彼らと戦っている。昔勤めていた会社の天井裏に住み着いていた。残業時間になるとガタガタっと騒がしくなる。あまりに気になったので天井裏に入ってみると数個の光る眼と おびただしい糞が確認できた。当時まだ保護動物扱いだったので市役所に出向き駆除許可を取り、近所の猟友会の方にわなを仕掛けてもらった。ぜんぜんかからずもう頭からハクビシンのことを忘れた盆休みの後 天井裏のわなの中で一匹死んでいた。
次に戦ったのは私のアトリエの天井だ。3年ほど前か。音がするので薬をまいて追い出し入り口をふさいだ。どれも厭な思いが残ったものだ。
そして今朝駐車場脇の檻にはハクビシンが入っていた。・・・野生の荒々しいものではなく 優しい目であった。
昼には、それは新しいセットになり 中の桃が妙に赤かった。

2011年7月30日土曜日

平面領域展の3



所謂 ビエンナーレ 『平面領域展』がなんとか開催できそうでウレシイ。もう3回目になるが なんといっても桐生さんの運営力によるものであろう。ここ2年のうちにみんなが揃ったことはあっただろうかと考えてみた、2~3度の桐生さんの招集にもかかわらず、僕はみんなの顔を一同に見ていない。一人は病気だったし、他の人は遠くに仕事に行ってしまったし、そういえば事故にあった人もいたなー。途中でメンバーが増えるような話もあったが 結局前回のメンバーのまま開催となった。



あとは、内容だ。昨日もらったDMはいい感じである。・・・やっぱり後は内容だ。



・・・



内容に自信が薄らいだのか オープニングパーティをすることにした。






そんな訳で 告知



会期 2011.8/20(土)~8/28(日)



時間 9:00~18:00



会場 長野県飯田創造館 ℡0265-52-0333



そのパーティ 8/20 18:00より 会費¥2000-

2011年7月23日土曜日

なかなか先が見えない



原発について反対の意見を言わなくてはいけないとここ数ヶ月思っている。福島の事故がある前は意識が高かったとは言えない自分だが、この状況を知ってくるとやはりしっかりとした反対の意思を示すべきだと思う。



しかし具体的には何から何まで独立した形で個人の判断が出来る社会じゃなくて、買い物にしても テレビを見るにしても 与えられたものを受け取るのみだ。福島に住む人たちのことを思うといたたまれない気になる。和合亮一の詩の礫を読んで・・・・うなるしかない。



今回ミューの個展に出した『Pb 敵、味方?』はそんな想いから創った作品だ。 

2011年7月17日日曜日

草間弥生

先週、駒ヶ根美術館を訪れたおり、草間弥生のテレビ番組の話が出た。(この美術館には草間の展示室があり充実している)たまたま昨晩その番組を見ることができた。いろいろ知らないことが出てきて興味深く見た。
草間のニューヨーク時代の初期の作品が出てきたが、それは乳白色系で柔らかな色調(原色や黒をぶつけ合わすいわゆる草間調とは異なる)であった。細かな網目が全体を覆っている。それが、最近オークションに出て、〇億円との事であった。大きさは120号くらい。アメリカ人の長らく外交官を勤めた家の所有であったが、贈与税が払えないので売ることにしたそうだ。よく聞き取れなかったが 買ったときは500ドルと言ったと思う。奥さんがとても気に入っていて長年応接間に飾られていたそうだ。まず思ったことは作品がよさそうに見えたことだ。草間独特な偏執的な緻密な網目が、美しかったこと(テレビなので細かなところはわからないが・・)偏執狂になってなくて(持ちこたえていて)好感が持てた。それからそういういい絵が売れたという事実、たしかにとても安いが アートが取引されていた時代、場所であったんだ、ということ。フランク スレラも草間の同時代の作品を買っている。50年後半から60年前半のニューヨークは何かが確実に動いていたんだろう。
そして今 草間ブームなのだそうだ。松本美術館の庭にある水玉の巨大チューリップ、・・・ディズニーランド的趣向は昨今のアニメ趣向に共通して 稚拙と思うのは私だけか・・・

2011年7月12日火曜日

ミュー自然館オープン







雨の中 なんとか搬入を終えて個展が始まった。標高1000mもある高原なので暑さもさほどではない、助かる。多くの人に涼みに来て頂きたいものだ。







この美術館で個展をするのはもう5回目になるかなー。オーナーの羽場氏が自ら創った手作り美術館なのだ。といってもどんなふうに創ったのか想像もつかないかもしれない。その昔 名古屋の南山大学の講堂が建設されるとき 旧講堂をキャンプ施設としてこの治部坂高原に移築されていた。その後手入れもされず荒れ果ていたが 羽場氏がこれを見てピーンとひらめき 美術館構想がスタート。しかし、彼の頭の中のものが現実になるには 文字どおり 献身的な日々が家族も含め数年をも要したようだ。建設費がたっぷりあっての計画ではない。彼の大工仕事ぶりはプロではないのにプロ顔負けの質と量だ。私は感動せざるを得なかった。この空間にはそんなエネルギィーが宿っている。







ここで何度も勉強させてもらっている・・・・。

2011年7月3日日曜日

二題





新耀展はほのぼのとした展覧会だと思う。リーダーの原弘氏の人柄かなー。年に一度この時期に東京交通会館二階のギャラリーで行われる。銀座は隣のブロックからなんだが なんかこの辺は垢抜けない感じがぬぐえない。じつは、そこがいいとも言えるんだが・・・新耀展もそんな場所に似ていてチョー凄い絵があるわけではないが 絵が好きだという人が出品していて、和やかだ。オープニングに月曜日に参加してきた。私の個展(2009 るたん)のとき来てくれた人達や、赤津氏の企画展(2010 風)で一緒だった人たちが大勢いたので たのしくお話しが出来た。ここでも若い人たちが少ない、なぜなんだろう?





話し変わって、





今朝 地方紙のお悔やみ欄で Y氏の訃報を知った。Y氏は二十余年前 私が飯田で初めて個展をしたとき見に来られ とても褒めてくれた。以来 時折個展でお会いした。そのたびに暖かい言葉で励ましてもらったので私の中ではとても大きい存在だった。何年かまえ創造館で個展をしたとき 疲れた様子で会場に来られた。『私は低血圧なので こういう風が強くて晴れた日は こたえるんです。普段なら10分ほどで来れる距離を 今日は30分以上かかりました。』そう言って、杖で体をささえつつ ひとつひとつ丁寧に作品を見てくれました。・・・ご冥福を祈ります。

2011年6月25日土曜日

ミュー自然館

いよいよミュー自然館での個展が迫ってきた。ぼつぼつ自作に見切りをつけなくてはいけない・・・

稲が30cmくらいに伸びるこの時期は私はもちろんだが一般的にも苦しむ人が多い。暑くて湿気があり陽の光が少ないコンディションは幼い苗には絶好だが その実を食べるこちら側にはとても辛い。説明のつかない変な事件があるのもわからないでもない。


話はそれたが 告知を2件 


☆林正彦展

  場所:ミュー自然館

           長野県下伊那郡阿智村治部坂1192-1553

           tel:0265-47-2021

  期間:2011 7月8日(金)~8月3日(水)  木曜休館


ちょっと不便なところですが、この時期 とても緑がきれいで爽やかなところです。以前ブルガリアのギオルギィ氏も来てくれたし わたしには幸運な美術館です。


☆第9回新耀展

  場所:東京交通会館二階ギャラリー

           東京都千代田区有楽町2-10-1

           tel:03-3215-7962


  期間:2011 6月26日(日)~7月2日(土)  オープニングパーティー27日5時半より


いつも作品を送るだけになってしまう展覧会なので今回は27日中央高速バスに乗って出かけます。

会の皆さんと交流をしたいと考えています。

2011年6月17日金曜日

《 FELA! 》を見る

フェラ クーティの伝記をミュージカルにしたショー《FELA!》を テレビで見られて感激した。




初めてフェラの音楽を耳にした時のことは今での鮮明に覚えている。(その話は 以前ブログに書いたが・・)今まで聴いたことがない強烈なビートが私を一瞬で虜にした。長い間レコードを探したが手に入れられなかった。それが余計に私のフェラへの想いを高めたかもしれない。


その後友人からもらったカセットテープは文字通り擦り切れるほどに聞いた。




さて、番組は字幕が出たので曲の意味がよく解った。と 同時にいかにいい加減に曲を聴いていたか我ながら呆れた。たとえば、<♪インタナショナリティ~・・>と歌っているところは ナイジェリアに展開する多国籍企業を風刺する歌詞で 国際性を歌っているものでは全くなかった!・・30年来のファンを自称していたが 恥ずかしい。





彼は 故郷ナイジェリアを恨んだり、憎んだりしながら 自分を模索しオリジナリティという境地に達した。それは、汎アフリカリズムで 自分 故郷ナイジェリア アフリカ すべての黒人に 自信を持たせることだった。


この生き方は 日本人である私にも とてもよく解る話で 生きる根本の部分で 自分の生きる意欲を自信のなさから 組織やら その場の事情に負けてごまかしてしまっている。そんなことを感じさせたミュージカルだった。


最後に 出演者と一緒に振付師が踊ったが、その存在感にはびっくりした。日本のテレビに出てくるチャラケタ振付師とは全く別ものだった。

2011年6月11日土曜日

リニア

このごろは 政治やら原発やらなんとも厭な空気が私を支配して ブログに手をつけられなかった。
ちっとばかり書く気になったのは リ二ア新幹線がわが飯田を通ることに決まったからだ。ここ数年は諏訪 上伊那地域と飯田下伊那地域とのにらみ合い状態だったのが 直線ルートに決定が下されて 飯田に駅ができそうなのだ。なんとも紆余曲折の次第・・・
南アルプスをトンネルで抜けて東京と結ぶという壮大な夢は 私の子供のころから長く語られてきたが やっとそれが現実になるのだ。
嬉しいことだが さて、大人としては心配事は多い。中央構造線をぶち抜いてトンネル大丈夫なの?電気をまさか原発で賄うの?東京中心の効率主義、消費文化、拝金主義、権威主義・・都の塵も通い来ぬこの山川にまことの何か が生きているはずなのに それが無残にも朽ちていかなければいいが、と心配。
南アルプスの壁がなんとも邪魔な存在と感じていた二十歳のころと違って このごろは『あの壁にずいぶん守ってもらったなー』と思う、あの東京のがっちりした価値観に跳ね飛ばされるたびに。
 

2011年5月21日土曜日

アート

昔 mmpoloさんのブログで知った若手芸術家集団Chim-pomが渋谷の岡本太郎の大壁画に福島原発事故の絵をそっと付け加えたそうだ。やったなー!と思った。
ストリートアートは70年後半のバスキア辺りから若者の特権かもしれない。言いたいことを言い切って逃げる。なんとも痛快だが中高年のわれわれには無理だ。すぐお縄になってしまうだろう。
(このところ原発関連の話ばかりで恐縮だが、)
その岡本太郎の絵はたしか反原爆をテーマにしていたが そこに誰にも気づかないうちに福島原発の事故を描き加えたもののようだ。実際に見たら嬉しかっただろうな。不謹慎なところが尚いっそうアートだ。岡本ブームをも 少しおちょくっている。
原発は戦後国策と言うことで進められた。たしか資源のない日本には夢のエネルギィーだからと大いに推進されたようだ。私たちは 子供のころ 十万馬力のアトムも妹のウランちゃんも名前からしてそうだが 原子の力(原爆とは切り離された)を信じきっていた。経済成長を大きく担う中心になるべく進んできたのだ。
ちょうどバスキアがニューヨークの街に落書きアートをやっていたころから、原発の危険性がクローズアップされ始めた。プレートが複雑に沈み込んでいる日本は原発事故が起こる可能性がある、いや高い。・・・
スリーマイル、チェルノブイリとやはり事故は起こった。
しかし日本は 経済の発展をとめるわけにはいかない、技術国日本では起こりえない。
たしかに十数年前から 事故を起こさない技術があるゆえに原子力で発展していくべきだ、との論調が主流だった。そこには国策推進のためメディア操作のようなこともあったようだ。
どこか、戦前の日本が、満州から 中国へと突き進んでいった構図に似ていないだろうか。
あの悲劇に対し回避する舵が切れなかった日本・・・・・
若手芸術家の活躍の場はまだまだたくさんありそうだ。それにわれわれアートの端くれもアートたのるもを発表していかなくてはならない。

2011年5月15日日曜日

自然に暮す







テレビ番組に『ダッシュ村』と言うのがあるが うちの家族はこれが好きで毎週日曜の夕食時の定番であった。有機的な農法で米や野菜を作ったり、焼き物を焼いたり、草木染めをしたりと奥が深く 信頼できる良心性があった。







自分たちが収穫した作物を主人公のtokio自ら料理して そしておいしそうに食べる。ほんとにものの尊さを伝えてくれて それに楽しそう。







ところが事もあろうに 例の福島原発の事故で(その村の場所は公にしていなかったが・・)避難区域となり今までのような、農の営みをみつめる番組を作れなくなっている。とても象徴的なことだ。







五月晴れが続いて 野外で過ごすととても気持ちがよい。筍や蕨なんか摘んで 味わう。田植えをする。自然の中で暮らせる幸せを 感じる。







しかし、原子力の事故はそれを奪うのだから 罪はおもい。この社会の歪みはいったい何処から来てしまったんだろうか。・・・





人の英知はそれを乗り越えられるのだろうか。・・・

2011年5月8日日曜日

浜岡



浜岡原発に停止要請が出た。何かと批判の多かった菅首相だが、この点についてわたしはうれしかった。福島のあの惨事から考えれば当然のようにも思うのだが、電力に関わる政治、行政、メディア、財界、そして学者 すべてが地下水脈のようなもので繋がっていて生活者のレベルの声は排除されてしまうかと悲観的に考えていた。





日本の文化は調和感覚は優れているが、なにか大きなものに反旗を翻すことはとても難しい雰囲気がある。そう、雰囲気が支配する文化なのである。 世の中に疑問を持たずそれなりに暮らすにはいいのかもしれないが、いよいよシステムが劣化してきている今、『寄らば大樹』では もうだめなんだ。けど、だれも組織の中で『それは違う』といえない。



少しさかのぼる話だが、太平洋戦争に突入してしまったのもなんか似ている構図に思える。






原発事故は 土を汚染し、ふるさとを壊してしまう。そんな恐ろしいリスクにいままで未来を賭けていたと思うとぞっとしてしまう。十四五年前テレビの深夜討論番組では 推進派が優勢だった。 あれはなんだったんだろうか・・・



2011年5月3日火曜日

南無の展覧会



なかなか4人とも忙しく 揃ってお話も出来ない今回のグループ展だ。私のようにすぐみんなと飲みたくなる性格だとやや寂しい感がある。ショッキングなのは陶芸の土屋さんが病気のため入院されていることだ。初日にチラッと顔を見せたが 病院を抜け出してきたのかなー。あいにくの雨の中 大勢の方々が来て頂いてうれしい初日だったが 土屋さんとは話す時間はなかった。





宮島氏は展示の日に会えたのだが 東京に帰ってしまった。バイトに追われていて辛いようだった。お酒好きの彼との話はたのしみだったけど残念。





今村氏は今回も 次の展覧会、次の展覧会と多忙を極めているようす。会場で彼の近況を聞けるのは奥さんの話からだけだ。





ともあれ この時期は 遠くから来てくれるひとが意外に多く “また楽しからずや”である。昨日は突然茨城の陶芸家樽沢氏が訪れてくれた。彼は高校の美術班仲間だった。





私がこのブログを始めたころ 彼はここ飯田で個展をやったのだがたぶん会うのはそれ以来だ。





あの地震については すごく揺れたが被害はなかったとのこと ほんとによかった。





元気な友の顔は 新緑の季節によく合うものだ。いい季節の展覧会だと思った。










2011年4月30日土曜日

web ページできました!

私のホームページがついにできました。友人のご協力で英文もあります。ぜひごらん頂きたいとおもいます。

2011年4月24日日曜日

南無4人展はもうすぐ







昨年に引き続き今年も 地元のギャラリー南無でもうすぐ展覧会が開かれる。今年は創画会で活躍中の宮島弘道氏が加わって4人の展示会となる。また南無のスタッフ人も充実していろいろとサポートしてくれる。関連して私のwebページも開設できそう。乞うご期待!





さて、南無の場所なのだが・・・





なかなか初めての人には説明がむずかしいのだ。昨年 東京に住む従兄弟が行きたいと言ってくれたので一生懸命説明した。『○○小学校のところを右に、道なりに真っ直ぐ行って、郵便局を左に、そのあとゆるやかな上り坂、大きな桜、急な下り坂、大きな石、鉄塔を左。』





曲がるはずの小学校も道よりずいぶん高いところで見えず、桜も、坂も 鉄塔も 増してや大きな石も、いたるところにあってわからなかった由。しかたなく帰ったと後でメールがあった。





田舎の風景は、ほんとに説明のしようがないものだ。皆さん自力でたどり着いてください。

2011年4月17日日曜日

やっぱり桜だ


春の日差しはなんておおらかなんだろう。先週がここ飯田の桜の満開に時期だった。

遅ればせながら今朝 花を愛でに行った。

歩いているうちに昨日までの原発のことやら、自分の暮らしぶりのことや 取り組んでいる絵のことやら、出口の見えない不安や漠然とした怒りのようなものに対して まあ・・どうでもいいや・・のような許しの感情が生まれてきた。

先週までは きっと春が来ても今年はこの不安は解消されないに違いないと思っていたのに。原発なんかの現実は全く好転していないのに。

こんなふうに 人は日の光に励まされて生きていけるんだなー。ボウアーっとした無思索な頭で桜を眺め、小一時間歩いた。

2011年4月8日金曜日

テレビ報道


桜が咲いてきて ほっとした思いになっていた。が、どうも福島の原発の状況があやしい。

テレビ報道はずーっと危険ではないから・・と言ったトーンだった。しかし突然低レベル汚染水を海に放出しだしたり、ちらほら30キロメートル以外の地域でも放射線量がふえたり、不安な要素がでてきた。

テレビは言わないが メルトダウンってことなんだろうか?

東電の莫大なスポンサー料によってテレビは番組製作しているようだから あまり情報を信頼しすぎるのも危険なのかも知れないなー。

テレビっ子で育ってきた私としたら何から情報を取り、どう行動すればよいのだろうか。支持待ち人間として生きてきてしまったから これからどう動くべきなのか考えがまとまらない。せめて雨に濡れないように子供に指示するくらいなのか・・・

今頑張っている被災した人たちにとってみれば、わたしの不安なんて きっとたわいもなくて 少し不快を感じさせる悩みなのかもしれない。

しかし原子力がらみは怖いと思う。

いつも桜が咲くと それまでくよくよ悩んでいたことがほんとに軽くなるのに、今年は ちがう・・・

青森の地下深く原子力廃棄物を何万年も埋めておくなんて計画 ちょっと前まで テレビで流していたがとても賛成なんて出来ない。

浜岡原発に もし大きな事故が起これば、風のとうり道のこの伊那谷は死の谷となるのだろうか。・・・考えてもいなかったことだけど 起こりうることで、しかもテレビはそんなことは絶対に言わない。

2011年4月2日土曜日

原発事故


震災から3週間が過ぎた。復興の流れが出来つつあると報道は伝えている。しかし福島原発は一向にいい展開になったとは聞かない。次から次えと難問が立ちはだかり、しかもその内容がよく理解できないため、苛立ちも増すばかりだ。『いったい東電は何をしてるんだ!』と思わず口に出してしまう毎日だ。福島がこんな状況に至ってしまったのはいったいどうしてなんだろうか?

一番大切なこと、たとえば今回で言えば原子力発電の道はホントに正しいのか、とかそういう問題に私たちは今までしっかりと向き合ってきたのだろうか?

そんな議論の場もなければ時間も持ちにくい時代に育ってしまった。 ものすごく大衆的な考えに“そういう難しい問題は頭のいい人たちに任せておけばいいんだ。われわれは、黙って働いていれば・・”と言うものがあったと思う。勤勉な良民的なイメージと言おうか。

そしてその頭のいいという人たちは試験で勝ち上がって官僚や、一流会社員(東電など)になり、われわれを導いてくれる・・・・筈だった。

・・・もう明治時代ではないのだ!テレビで見ていると“頭のいい人たち”はもうスカスカだ。自分のことで精一杯で とてもわれわれを引っ張ってくれるとも思えない。

だから、われわれは一番大事なことについて常に考えていなくてはいけないんだ。原発に頼っていてほんとにいいのか?じゃあ電気は?・・・次々にわからないことばかり・・・でも考えていなくてはいけない。白紙委任状を渡してはいけないんだ。稚拙な結論でも自分の結論を持たなくてはならない。持てば思考停止にはならない。

2011年3月21日月曜日

原発事故


突然の電話で妻は答えるすべを失ったようだ。イタリアの懐かしい友が日本の地震や原発事故を心配して電話をくれたのだ。何年ぶりに声を聞くんだろう・・受話器を取って話すうちに声が上ずってきた。震源地から離れているので幸い被害がなかったことを伝えた。しかし原発事故はかなり危険であるとあちらでは報道されているようでたいへん心配してくれた。このごろは具体的に自衛隊や消防が手を打ってくれていて放射能の値も小康状態であると報道されているので少し心配も薄れたが、電話をもらったころの日本のテレビは実態がよく伝わってこなかった。ほんとはヨーロッパの報道のようにヤバイのかと思ってしまった。

かれは『ほんとに危なくなったら家族を連れて俺のところへ逃げて来い!』と言ってくれた。うれしかったが リビア人が国を逃れて地中海を渡る様子を連想させて 少し苦笑した。

最後に 同い年の彼に聞いてみた。『髪の毛は 何本残っている?』『すこし』と答えた彼の声の近くで妻のルチアの笑い声が聞こえた。

また会いたいなーと思わずにはいられなかった。
(写真は電話の友人と二人展をやったときのポスターでなつかしい。となりのポスターはユーロコムニズムらしきもので時代を感じる。)

2011年3月13日日曜日

津波


3月11日はまた記憶に残る日となった。私のところでは 静かでゆっくりした揺れが長く続いた。わりと大きな揺れで不気味だったが。
しかし、会社にいた私にはそれ以上のことは知らなかった。帰りの車の中でラジオをつけると ことの異常さがすぐに伝わってきた。10メートルを越える津波が東北地方を襲っていると言う。・・・

急いで帰ってテレビを見ればそこは海があらゆる物を飲み込む物凄い世界だった。ごみのように流される家々、その一つ一つに尊い人生があるというのに・・・そんな感情さえうかばせないような事実の連続、それをテレビで見ると言う不思議な感覚。

いくつもの町や市が飲み込まれてしまったという。ひとりひとりの思いや悲しみを想像すると、どうやって復興という精神状態に結び付けていくのか、気が遠くなってしまう。あまりにも大きな心のエネルギーが要る。・・・立ち向かう逞しいひとびとはきっと大勢いるだろう。それを祈る。

2011年3月8日火曜日

現代の創造展


飯田下伊那をホームにした作家の展覧会『現代の創造展』がこの6日で終了した。約130人の出展で書道から日本画、洋画、彫刻、工芸と広いジャンルの展覧会だ。このところ実行委員ということで開催にかかわっているが なかなか難しい展覧会だ。作品を創るという基本は共通しているはずだろうが、ジャンル 個人 で考え方がかなり異なっている。だから、ちょっと掘り下げた話し合いになると まとまりはしないし、それがわかっている人たちは意見を闘わすこともない。差し障りないレベルで事が決まっていく。当然形だけが残っていく。いいんだろうか?と思いつつ・・・人選についても然り。

昨年何人かの方々が この流れを嫌って辞められた。私はこれだけ大きな展覧会がなくなってしまうのは残念に思うのでその中に残っているのだが、具体的にどんな方向に持っていくべきかよくわからない。

みんなはどんな捉えかたをしてるんだろうか・・・

2011年2月24日木曜日

隻手の音

このところ、新聞等に取材を受けたが、上手く答えられなくてすっきりしなかった。それは、なぜ、土を使って描くのか? そして そもそもなぜ壁の絵なのか?

今もしっかりとした答えがあるわけでもないが、一昨日たまたまテレビで白隠の番組を見て気が付いた。『隻手の音を聞け』という言葉が出てきたのだ。
両手があって はじめて手をたたくことができる。片手では手はたたくことはできない。では、手をたたく気持ちが起きないのか?   否。
わたしは二十歳過ぎころから 油絵の具が 描け過ぎる と言う感じで厭になった気がした。絵の具の能力が自分の気持ちよりいつも上で 自分がどう描きたいのかわからなくなってしまう、という感じがしたのだ。
・・・もっと濁っていて、中間色で、質感のある感じ・・・
私にとって 最初の隻手の音は 土を絵の具に混ぜることだったように思える。
そして今も その聞こえるかどうかわからない響に耳を澄ますのだ。

2011年2月20日日曜日

二束のわらじ


よく 絵をやってます、と自己紹介すると『いいご趣味ですね。』と言っていただける。なんとも もやもやする褒め言葉なのだと言いたい。絵の道で食べていくと言うことはかなり難しいことで、私の知っているなかでも1~2人しかいない。第一 比較的若くから画廊さんなんかに認められる必要もある。そして自分の絵を勝手にどんどん変えていくことも そうそう許されていないようで大変だ。だからしかたなく何らかの職に就かざるをえない。二束のわらじと言うやつだ。
しかたないと言いつつ、テンションが低いままで続けられるほど、職業は甘くない。なんど職場でもめたことか..

性格面から言えばアートめざす人間は一言で言えば素直じゃない! それに我が強いうえに怠惰。救われないなー

ところが、これが救われるんだという理屈がある。いつごろか好きになった作家がいた。白隠だ。そのとぼけた坊さん作のお経に次のようなものがあった。

衆生本来仏なり 水と氷の如くにて 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし 衆生近きを知らずして 遠くを求むるはかなさよ たとえば水の中にいて 渇を叫ぶが如きなり <後略>

 


2011年2月11日金曜日

この時期 夢を見る...

村上隆の本を読んでいる。なんかむかーしの感情が蘇ってきた。それは、かれが作品を仕上げる段でぐいぐいとその画面に、にじり寄っていくという姿勢のあたりでだ。絵に肉薄していく気迫のようなものが、作品に『圧力』を与え 見る人を説得する、というのだ。それをたぶん自分のスタッフに求めているのだろう。
私が思い出したのは、芸大浪人ころ、予備校の先生によく言われたせりふに似ていたからだ。だからちょっとヤナ夢を見た。ぼくは、必死に抵抗していた。『その学んだ技術が、何に繋がるんですか?』と....
あのころ、いろいろなアートが溢れれだしていた。二十歳前の私たちには怖いようで でも魅力に満ちていた。しかし受験生には見えるとおりに描くデッサンしか許されなかった。
そのデッサン道で『気迫』を強いるのだ。その延長上にアートはなさそうだと思ったわたしはついていけなかった。
村上氏はオタクアートをその先に据えてまい進している。そのテクニカルなところの気迫が高価な価格に反映しているのだろう。
わたしはといえば 未だに絵は売れない。でも間違った道にいるわけではないと自分につぶやく。

2011年2月5日土曜日

新聞に載る

アジアカップのサッカーに興じて一月がすぎたが、ブルガリアの受賞の件が  新聞に載って急にあたりが一変してしまった。ぼーっと無責任に日本代表のサッカーをテレビに向かって評論している場合ではなくなってしまったのだ。友人から 親戚から おめでとうコールを頂く。懐かしい中学の同級生からメールも届くし、職場では普段話したこともないおばさんにも声をかけてもらえる。こんな経験初めてだ。なんか浮ついてしまう。
サッカー日本代表の李タダナリ選手がコメントしていた。『ヒーローになってうれしいが、これでサッカーが上手くなったわけではないので これからも頑張りたい』.....若いのにしっかりしているものだ。
見習って モードを切り替えなくては。くれぐれも間違えてはいけない!わたしがアジアカップを取ったのではないのだから。

2011年1月22日土曜日

タクラマカン


親しくしている額やさんのタクラマカンが昨年の暮れで10周年になったという。そうか...と感慨深い。10年前 彼と彼の友人たちと知り合ったことは、私にとってとても救いだったことを思い出す。バブルがはじけたころ 私は田舎に帰ってきて親戚の会社に勤めていたが、何をやっても八方塞の感から抜け出せずいいた。



阪神大震災から16年が経つとテレビが17日に伝えていた。ちょうどそのとき私は飯田美術博物館の市民ギャラリーで初めての個展を開いていた。滋賀から来た友人と楽しく飲んだ翌朝あわてて帰っていった。



その後 自分の絵の方向性や、生き方のようなものが、田舎の暮らし(伝統的で保守的な)と どうしても合わなくて 自分が縮んで行くような感覚になっていたと思う。



たとえば絵を額に入れたいと思っても、シンプルで斬新なものなど見つけることができなかった。自分でやっても思うように行かなかった。あきらめ半分でパン屋さんでもらったチラシに電話したのがタクラマカンだったのを今でも覚えている。



画一的な暮らしでしか、生きていけないと思っていた田舎で この若者たちは(当時のタクラマカンとその友人たち)貧しくても自分のオリジナルの息をしている!と感動したのだ。



あれから10年 増築もして風格も出た。もっと世の中の画一化と戦ってもらいたい。エールを送らざるを得ない。

2011年1月4日火曜日


年末年始の天気は予想に反してよく晴れた。


近くにある天満宮に 詣でる。


森のにおいをいっぱいに感じて帰宅。よい年になることを祈願したが さてさて仕事をどんな感じで入っていきましょうか・・・緩んだ気持ちを締めていかなくては。