2016年12月14日水曜日

nebraskaを見る

なかなか映画館に行くことはなくなってしまった。
そんなこの頃 テレビで「ネブラスカ」という映画をやっていて 何気なく見入ってしまい、そして心にしみた。
第一に白黒映画はとてもピュアーな感じで好きだ。案の定主人公は優しそうな(うだつも上がらないが)男で、その父親がボケも入ったようなアメリカン頑固老人。
ある日宝くじが当たったから換金にネブラスカまで歩いて行くと言いだす。しかしそれは殆ど詐欺まがいの話だ。母は口汚くののしるばかり・・男はかわいそうに思い父を車に乗せ旅に出る。ロードムービーである。父のいろいろな思い出話が出てきたり 父の親せきの家に寄ったり 昔の友人がカネをめぐって登場したり・・・この手の展開は好きだ。
そして知らず知らず温かな気持ちになっていく。かわいいばあちゃん(母親)の悪態には笑ってしまた。
出来のいい兄ちゃんと一緒に父の悪友に仕返しするためにコンプレッサーを盗むシーンもよかったなー。
是枝監督の映画もそうだが最近の映画は ほんの些細な家族の幸せを扱っていて リアルでそして暖かい視点がうれしい。

2016年12月9日金曜日

出会い

50年ぶりかな・・弁天島に来たのは。
ギャラリー風蘭の個展の初日 ブロンドの男性が訪れてくれた。言葉が通じるかなと思いつつ話しかけると 日本語の返事が返ってきて ほっとした。
暫くし 私の経歴を見ていた彼は「ペルージアですか?」と聞いた。「はい」と答えたその時から 彼はイタリア語でドンドン話しかけてきた。ほとんど反射的に私も対応したのだが 相当錆びついたイタリア語なので しどろもどろであった。彼は北欧の方でなんとペルージアのイタリア語外人大学に行っていたのだそうである。時代は異なっていたが私もそこでイタリア語を学んだのであった。言わば同窓生である。 なんと奇遇なことか、わたしも驚いたが 彼も相当びっくりし、そして意気投合 ペルージアの思い出話に花が咲いたのだ。
後日イタ飯を食べに行くこととなり、そしてワインで乾杯となった。当然飯田まで帰れなくなり、結果 氏の家に泊めていただくこととなってしまいました。
朝方窓から見る景色は50年前の就学旅行を思い出さすものでした。「あ・・ あんな鳥居あったな・・、そうだ!潮干狩りしたけど オレはクラスで一番採れなかったな・・、
でも夕飯はクラスで一番おかわりしたなー」。
出会いはうれしい。

2016年12月1日木曜日

ギャラリー風蘭(浜松)

三遠南信アート展を長らく主催してくれてた吉田さんオーナーのギャラリー風蘭にて、個展を開催しています。2013年5月以来2度目の企画になります。3年半ぶりの再会ですが、相変わらずポジティブで、若々しくて驚きました。 が、じつはいろいろな変化もあったそうです。『年ですかね…』と笑っていらっしゃいました。
2階の喫茶店はもうご自分ではやってなくて 違う方が何と私の個展に合わせてオープンしてくれたんです!
オープニングパーティーにも出席させていただきおいしい料理、ワイン、それに生ハムの食べ放題!豚の太ももごと会場にありナイフでのセルフサービスでした。イタリアのハムやさんみたいでとても堪能させていただきました。本来なら私も主催側にならなくては行けなかったかもしれないのでしょうが・・・
またいい出会いを予感させるかな。
会期は12/8まで。
よろしく。お出かけください。

2016年11月22日火曜日

CAF.N展

埼玉近代美術館で開催されていたCAF.N展は20日の日曜日で会期が終了した。片道300キロの道のりは遠いと言わざるを得ない。撤収作業も早々に帰路についたが帰ったのは夜10時過ぎであった。疲れた。
ただこの時期は伊那市~諏訪~韮崎あたりまでの紅葉は息をのむように美しい。思わぬ紅葉ドライブにとても得をした気にも毎年なるのだ。
さて、そんな長旅をしてでも展示を繰り返しているのは この展覧会がなかなか質が高く 見ごたえがあるからだ。この2~3年世代交代かなと思っていたが若い作家がだんだん力強くなったように思える。しっかりした作品を作っていかないと置いてきぼりになってしまう気がする。気を引き締めなくてはなー。
でも作品とは不思議だ。昨日は知人に紹介されて とある個展を見に行った。作品は小品がほとんどで作家の内的イメージを作品にしていた。ほんの些細な思いやいたずら描きを水彩的な(アクリルカラーや墨なども使っていたが・・)表現で にじみなども使い繊細な絵たちであった。それはなんか日記のようで気張らないやさしさが感じられた。作家の寂しさなんかも滲んでいた気がした。
一方 CAF.N展の作品達は大作で 美しかったり、カッコよかったり、問題提起的作品だったりで すばらしいんだけど この作家の個展のような安心感や、作家の人生の中にある寂しさのようなものはないので この2つの流れは相いれないものなのかなと思ってしまう。兎角この作家のような作品発表は注目されにくく 個展などで 親しい間柄のみによって支えられているのかもしれない。

2016年11月13日日曜日

築300年の上松邸(飯田市下瀬)

私の地元に上松邸という庄屋様の館がある。確か遠い記憶で小学校の1年下にそこの娘がいたような気がしたが 3年ほど前偶然 ある会で出会い時の流れを感じあった。長くフランスに行っていたが この頃はその屋敷に戻っているとのこと。そしてオープンギャラリーのようなものを始めたいと言っていた。
実行力と人柄なのか 昨日から そのギャラリーがオープンした。私も2点ほど展示していて、他に今村由男氏、山内孝一氏、上林泰平君、宮井啓江さん、それにもたいえみさんがサックス奏者の森田修史氏とともにパフォーマンスをするそうである。
やはり築300年という空間が 私たちの作品に大きな深みを与えてくれる。
ぜひともお出かけください。12月4日まで。

2016年11月12日土曜日

浜松、ギャラリー風蘭

今月29日から12月8日まで、浜松市のギャラリー風蘭で 個展を開催いたします。

2016年11月5日土曜日

交流展に積極的になる・・・

一昨年秋に 日本・チアパス芸術交流委員会という組織を現地メキシコの美術家Akio Hanafujiの協力を得て発足させ、十余人の日本人アーティストたちがチアパスという州で展覧会を開催した。私も当初メーンバーに入れていただいていたので行く気満々であった。しかしながら諸事情で叶わず作品のみが海を渡った。昨年何度かその渡航組に会ったが熱が違ってしまいその後会合さえも遠ざかってしまった。
今回韓国の韓中日美術交流展を楽しく経験して 「せっかくみんなが努力して交流の道を開いてくれているのに自ら消極的になるなんて どういう事!」 と深く反省した。
それで、メキシコの方の団体の裏方仕事をします、と執行部に言ったところ直ぐにいくつかの申請書類の制作を言い使った。・・・
来年はメキシコ・チアパスの画家たち(世話になったAkio Hanafujiを含めた)を日本に招きメキシコ・日本合同の展覧会をやるのである。執行部の人たちはなんて積極的なんだろう!
確かに 韓国交流展の帰り道 あー今回のような交流展を日本でも熱くやりたいなーと思ったが・・・「招待するお金は?」「受け入れる大勢は?」「例えば飯田市でできるのかなー」とか思っているうちに夢は萎んでしまった。
でもやり方はどうも全くないではないようなのだ。いくつかの文化財団に助成を申請したり、公共の文化団体に協力を求めるのである。・・・うーん、まあこれも自分一人ではできないよなー。執行部の後についてちょっとだけ頑張るしかないようだ。
一方こちらの写真は韓国交流展、こっちはおいら一人か・・・

2016年10月25日火曜日

韓中日美術交流展に参加

毎年有楽町で開催されている展覧会の関係者に推薦をいただき 首記の展覧会に参加してきました。場所は韓国の珍島というところで今月21日から27日まで開催されています。
私にとり韓国は初めてのお国、いったいどんなところなんだろうと急に気持ちがざわめいていった。
ネットで調べても あまりいいことが書かれてないページが多い・・・。とにかく行ってみよう、百聞は一見に如かず。
珍島はインチョン空港からバスで6時間 なんとも長旅である。というのも飯田市を朝4時半に出て、成田 インチョン そして珍島 着いたのは深夜1時近かった。珍島とは朝鮮半島の南西の端にある島で3~4万の人口の郡である。悲しい話だか昨年セオル号の沈没で多く亡くなった高校生が修学旅行で向かっていた島と言えばピンとくる方もあるだろうか。ほかには豊臣秀吉の朝鮮出兵に登場する海戦の島。
着いたその日からこの展覧会の企画者たちに(珍島郡 珍島芸総)温かく迎えていただいた。全くハングルは読めもしないし話もできない私たちに空港までバスで迎えに来ていただいたのだ。そのバスには札幌から来た作家たち数名と中国の作家たちも一緒だった。途中で食堂により 皆で韓国飯をいただいた。初めて味わう料理でどう食べていいのかさえまごつくありさまだ。でも魚を皆でつつく間になんか和らいだ雰囲気になっていったのはとてもありがたかった。

翌日会場で展示を行い、夜は前夜祭の宴であった。中国、韓国、の人々に交じって沖縄の方々もいた。話を聞けばあす、『死に関わる舞踏』というテーマで モンゴル、満州、珍島、沖縄ラインの民族の葬式に関するの舞踊のステージが用意されているのだそうだ。
この壮大な文化行事に驚くしかなかった。こんな小さな郡が国際交流展を開催し 同時に死生観をテーマに国際ステージを開催するなんて!

夜キムチ鍋を前に私たちは言葉も通じない中国や韓国の作家たちとただただ目を見つめあい 肩を組み、乾杯を繰りかえしたのだった。
そしてとてもいい満足感を味わった。韓国の人たちの心のこもったお・も・て・な・しに感謝しながら 日本のネットの状況は違うなと思った。


2016年10月10日月曜日

鯖寿司祭(伊豆木八幡宮)

私の生まれた飯田市伊豆木には秋鯖の寿司を鎮守の神様に奉納するお祭りが昔からある。若いころは故郷のことなど関係ないとか思ったりもしたが 中年を過ぎたころからはその考えも大いに変わってきた。赤土に出合ったころからであろうか,わたしの挫折も大いに関係するか、ともあれ尊い流れの中にいるような気がしている。
その祭りに氏子の総代として去年 今年と2年お手伝いをしている。写真はその祭りで 奉納した鯖寿司を取り分けて直会で頂こうとするところである。
この山中の里でなぜ鯖なのか?とお思いになろうが、なんと300年あまり続く伝統なのである。小笠原屋敷がここ伊豆木にはあるのだが、そこのお殿様が京都より伝え 郷土の行事食となったそうである。秋祭りのこの日、伊豆木の夕食はどこも鯖寿司を作り近隣の親せきに配り そして大いに食するのである。・・・眉唾系の話と思うが 昔はこの時期愛知県の岡崎の浜では鯖の値段が跳ね上がったそうだ・・・。
我が家の年老いた母も3匹の鯖をチラシ寿司にして叔父たちに配って回ったようだ。(水を差すようだが、我妻と、娘は青魚アレルギーのため決して口にはしない・・まあそれも伝統の中であろう。)
この直会には 県の無形民俗文化財ということでテレビや新聞の取材の方々が来てくた。素朴な氏子総代の私たちは妙にハイテンションになり 寿司よりお酒が大いに弾んでしまった。

2016年9月28日水曜日

金木犀

我が家にある木犀の木から 久々に秋らしい香りがしてきた。 ここ2年ほど 大きくなりすぎていたこの木を私はバシバシと剪定していたので 弱ってしまいろくに花をつけることができなかったのだ。可哀想だなと思いつつも自分の勝手を通してきた。が ここにきて実は ほっとしている。いい香りだ。
その話を高校生の娘にするとキンモクセイッテ?ときた。木犀をやっと説明すると トイレの芳香剤の匂いね、という。アプローチに情緒もへちまもない。
わたしはある話を思い出していた。
友人が 息子が飼い始めた子犬を散歩に連れて行った日のことだ。ゆったりとした気持ちで歩を進めていくと とある街角で突然車が出てきて子犬とぶつかってしまった。どのくらいの事故であったのか私はよく知らないが 子犬はキャンキャンとものすごい声をあげ 彼の胸元に飛び込んできたのだ。・・・
以来彼の犬への溺愛ぶりは相当なもので、もう息子の犬ではないようだ。
私も木犀をあまり邪険にしないようにしたい。

2016年9月22日木曜日

赤土講座のプチ作品展

今日昼から飯田創造館のロビーで1週間 赤土講座のプチ展覧会をオープンしました。
額に自分の作品が入って壁に掲げられると みんな「おー!」と自分の作品に感銘されていた。これは尊いことだと思うし、こんな瞬間って実生活のなかでなかなかな体験だと思う。この自由感を皆さん見に来ていただきたいな。


2016年8月30日火曜日

久々に 主張を考える

原発の問題、沖縄の基地問題、国外では中東の問題や難民問題・・・難しくてそう簡単に意見は言えない。が 漠然とこうあるべきではないかとは考えている。
先日高校時代の同学年の会があった。昨年夏 元高校美術班3人展を開催した折 多くの同学年生が受付やら オープニングパーティーやらで手伝ってくれて大いに盛り上がった。 彼らも同級会とは違った再会に 展覧会をある意味大いに楽しんでくれたようだった。そんな熱がまだ残っていて今年も暑気払いと銘打って二十数人が集まったのだ。卒業以来四十数年話したことも会ったこともない奴らもいた。でも酒が入るとことのほか打ち解けて楽しい時間だった。
さて、前置きが長くなったが そんな会で医者になっている一人がまじめ顔で(元々まじめな奴だが)文頭の諸問題の意見を言った。とても意識の高い雰囲気だった。何人かもそれぞれ意見を言っていた。私たち元美術班はちょっと腰が引けた感じだった。ふざけた話は大声で話すのに・・・
その医者は「こういった大事な問題をアートに表現してもらいたいよ。」といった。
現代美術は本来こういったテーマは扱いうるジャンルのはずだ。なぜやらないんだ?と自問してみた。
初めて油絵具を買ってもらった高校の頃 私は当時のビアフラ問題を絵にした記憶がある。アサヒグラフという雑誌の写真をもとに貧困で死にかけているアフリカの子供の絵を描いた。その問題を当時どのように理解していたかは覚えてもいない。ただ、写真を見て描く自分が真実のうわっ滑りをしているような気持ちになった記憶はある。その後見えるものを描くことのほうが実感を得られ、その方向性は置き去りにしてしまったようだ。
社会問題と自分との距離がリアルな実感を伴った表現にならない。それが きっと自分の今の姿勢なんだと思う。
と言って 先に書いたようにこうあるべきだと思う私の方向は 私の赤土の仕事の中には確かにあるつもりだ。 例えば放射性物質に汚染されない豊かな自然の中で生きる人間こそ 本当の自由な暮らしがあると。

2016年8月23日火曜日

さあ、秋だ!赤土講座再会

長くブログに触れず夏が終わりそうだ。7月の終わりにペルージア時代の友人たちの会が横浜であり 懐かしさにどうもはしゃぎすぎたようで その後一か月夏風邪に悩まされてしまった。いつの間にか自分は暑さに弱くなってしまったようだ。少し初老性鬱が出てるんじゃない?とある友人に言われた です・・・。
テレビでリオ五輪を楽しんでいる間に幸い風邪は抜けて どうやらエネルギーもチャージできつつある。良かった!
今週と来週の土曜日は 昨年からは始めた赤土講座が再会する。ちょっと気持ちを入れねばならないところである。
今年は少し具体的な方向性を提示して作品を作ってもらおうかなと考えている。
昨年は 「赤土に接して その感覚で何でも自由にやってみよう」ということであったので 赤土ってどんな感じ?捏ねてみるとどうなるんだろう?・・というところから 僕は何も言わずにそれぞれに任せていた。
それでみなさんは若干途方に暮れたようだった。僕的にはそこでしっかり立ち止まってもらい そして感じて試行錯誤をしてもらいたかったのだ。結果はどうだったのかよくわからなかったが、単なる泥遊びの次元で次が見えなかったのかもしれない。というのも今年の参加者がちょっと減ってしまったからだ。
どんな形が自分の中で「いいな」と思えるのかは それぞれ違うとは思うが少し僕の方向性を提示して具体的な道筋を着手してもらおうと考えています。それは、土の質感に拘ってもらうことです。では、土の質感で「いいな」と思う状態はどんなのか・・?たとえば、表面がつるつるではなく といってギザギザでなく 柔らかな土色のトーンがでている感じ、そっと手で触れたくなるような感じ。
では、それを表現してみよう・・・
こんなことを考えつつ 講座を準備し始めたこの頃でした。

2016年7月14日木曜日

FontanaとBurri

この頃よく若いミュージシャンが”ロック愛”を語るが 私は"現代美術愛"をつい思ってしまう。
ちょっと前何かの展覧会セレモニーである美術家がとうとうと現代美術なんて存在しないのではないかというようなことを言っていてとてもがっかりしてしまった。確かに今の上野を中心にした美術界はそんな淀んだ感じなのかもしれない。私は何度も書いているがポロックあたりからのアメリカの現代美術やヨーロッパの戦後アートに心を奪われている人間なので 一緒にしないでくれと思ってしまう。
さて、フォンタナの話の続きを書こう。
フォンタナは戦後まもなくローマでブッリたちとグループ展を開く。ブッリはペルージアの近くの街で生まれペルージア大学医学部後、第二次大戦にアメリカの捕虜になっている。そんなあと数年で ”あのアート”になっていくのだ。武満徹の音楽のように深くて強い抽象性がある時代だったのだろう。・・・
生き死にの地獄からの解放であったのか・・・
ブッリの麻布の作品が私は好きだ。そこには描かれたというフォルムはない。あるのは素材の布のもつ柔らかさ、やさしさ、強さ、それに生きた人間がそこにいたという人間に対する親和性など、それが破れた汚い麻布だという既成の価値観から一歩踏み込んで観たときに しっかりと感じることのできる絵なのだ。それはそれまでにはなかった新鮮で斬新な表現だった。
私はその世界が私の進みたい表現の道だと思った。だから前回書いたように[フォンタナ以降の世界]を信じた一人だった。
ブッリはその後ビニールを焼いたり、タールを大きく固めたりしていたがやがて新作はなくなってしまった。
その後の美術界もその素材性についていろいろな展開を見せたがだんだんと物に近くなって素材性のストイックでロマンな感じが薄れてきた。アルテ・ポーヴェラの旗手たちも素材を深化させていったが表現される豊かさは薄れていった気がする。作品の訴える力は小粒になっていったと言わざるを得ない。作品の素材感が 即物的なクールなものになり やがて心の通わない世界になってしまった気がする。(一歩踏み込めば 豊かに感じることができていた表現が 消えて言った感じ)
そして今や お化けのようにまたフォルムが出現してきた。それは初期の素材性を否定することなのに・・・
抽象的なことを感じる感性が萎んできているのかな?世の中も 私自身も・・・
戦争から70年ということもあるだろうし、TV(テレビ)の登場も見えないものを感じにくくしているんだろうな・・・
画像は10年前の自作。

2016年7月6日水曜日

Centre pompidou ; Timeline1906-1977

先週フォンタナに触れたが タイミングよく東京都美術館でポンピドウセンターのタイムライン1906~1977という展覧会を見ることができた。まさしくフォンタナがなぜあんな作品に行きついたのかを感じさせる時代理解の展示であったと思う。機械の発展、理性と感性の遊離、センセイショナルな表現、豊かさと狂気、戦争・・・私たちが今思っているほとんどの感情がこの100年で発露しているようにも思える。この展覧会はそこが良くわかる。そしてコンテンポラリーの表現はほぼ出尽くしているようにも思えてしまう。・・・私たちが今やっていることは この100年の表現の焼き直しなのかもしれない。
ただ、環境保護とか 中東問題に対する姿勢とか グローバリズム問題とか 20世紀の宿題もたくさんある。それはそれで私たちに問われている難題だ。そこを自分の中の問題として取り入れてテーマとなしうるかがこれからの表現する者の新ステージだと思う。自分の痛みとそれがどうシンクロしているのか気が付けるか きっとそれがカギなんだと思う。
むかしヨーロッパに行ってすぐ(78年早春のころ)オープンまもなくのこの美術館で 私はぶったまげた。
ここにすべてがあると思ったのだ。現代美術に魅了されたんだった。正確に言うと現代美術がどうして生まれたのかが分かった気がしたのだ。ぶつぶつ切れたイズムではなく歴史の流れとしてストンと私に入った気がしたのだ。
まだ、日本のガイドブックにはここは載っていなくて(少なくても、私が当時持っていたフランス旅のガイドブックにはなかった。) 歩いていて偶然 出くわした巨大コンビナートのような建物!!!。 なんだろうと思いながら入ったら ピカソ ブラック マチス ボナールなどなど 画集で知ってあこがれていた名品ばかりに出会えたのだ!・・。もちろんその後にタピエスにも ここで出会った。

2016年6月28日火曜日

14回新耀展でフォンタナを話す

先週は有楽町の交通会館にて新耀展が開催されていました。もう14回にもなっていて落ちつた感じの展覧会でした。最終日になんとか駆けつけて皆様にご挨拶。2年ぶりになるためかなんかいい感じの驚きがあった。変に気張ってないからかな、それに洗練されて来たと思う。(皆さんは大方70歳前後の方たちだから 失礼な言い方だと思いますが・・・)
以前から時折話をするYさんとちょっと会話をした。『ルーチョ フォンタナの次ってないんですよね?』 私は答えるべきと思ったが言葉が詰まった。
私は好きな作家だったから なんか不思議な責任感を感じて余計戸惑ってしまった。
家に帰ってから もう一度ネットで調べ直すしかなかった。
 Lcio Fontana イタリアの現代美術作家、キャンバスを鋭いナイフで切り裂いた作品で有名。
1899年アルゼンチン生まれの人だったんだ!まさに激動の20世紀を生きた人で 10代でイタリアに渡り第一次世界大戦を経験、その後ミラノのブレラ美術学院で彫刻を学ぶ。南米と行き来しつつ作家活動。そして、第2次大戦後 50年ころベネチアであの作品を発表し 有名に。・・・
驚くべきは 現代美術が生まれてきた流れとほぼ同時代の人なのだ。ピカソより8歳年下で
(しばらく前に私が当ブログで取り上げた)静物画で独自の世界を作り上げたモランディとは一歳年上。
いろいろな思想や潮流ムーブメントが怒涛のように彼らを流れていったのだろう。
さて、初めの問いに戻ると
確かに、あの鋭い作品はあまりに完成形で 次を考えられない。キャンバスの色を変えたり、カットを2本にしたり ・・いくつかのバリエーションはあるが発展した次の次元はないように思える。
一般に現代美術には ワンヒットワンダーが多い。バーネットニューマン、ポロック、ロスコ、・・私の好きなブッリも60年代後半には制作は止まっていた。
ただ、崇拝者は凄いいるのだ。現代美術ファンはほぼ全員そうだともいえる。
反面作家自身はつらい最期の人が多い。きっとこの先に幸せがあると一瞬(?)皆信じたのだと思う。何か新しい道が開けたと思った。しかし幻だったのか・・・道は開けていなかった。信者は期待するが次が見えない。・・絶望・・不幸な最期・・
美術ジャーナリズムにも 大いに責任があると思う。ゆっくり新しい道を開拓していきたくても センセイショナルに煌びやかに 取り扱い
そしてとうとう最後は可能性をつぶしている。
こんな風潮だからこそ モランディのような生まれ故郷に籠もり制作する姿勢が尊いのかもしれない。


2016年6月23日木曜日

チアパス帰国展と夏のAllmage展

期せずして 2つのグループ展に出ていくことになりました。
ギャラリー暁(銀座6丁目)のチアパス帰国展と 少し前に銀座1丁目に引っ越したK'sギャラリーの夏のAllmage展、どちらも7月4日から9日までで、初日に久々上京することにしました。
チヤパス展のほうは昨年メキシコに同行できなかったので少し肩身が狭い。来年5月横浜で大きな展覧会にもっていこうという実行委員長赤津氏は意気盛んである。盛大にしていきたいと末席の私も願うものである。
もう一つのK’sギャラリーの方は初参加で 新しい何かを期待しています。数年前 K'sの増田さんに新耀展(これは現在 有楽町の交通会館2Fのギャラリーで開催中!)に出品していた作品を褒めていただいてから ぜひぜひこのギャラリーで展覧会をしたいなと思っていたのでほんとうに嬉しいグループ展です。絵描きはちょっとしたこと覚えているもんなんでね・・・。
ただ増田さんがそれを覚えていてくれてるか かなり
ポイントなんですが・・・・・

2016年6月7日火曜日

土の色とチェロの響き

治部坂高原のミュー美術館に友人生田氏が突然チェロを抱えて訪れてくれた。
彼は私の好きなチェリストで、昨年名古屋のギャラリー「芽楽」での個展オープニングにバッハを弾いていただいたのだ。
まさかのプライベートコンサートが私の展示空間で急遽始まった。・・・
チェロの音色は不思議だ。耳で聞くというより体が共鳴して脳が揺さぶられる感じだ。
バッハが土の絵肌を伝わっていくをの感じながら至福の時間を私は過ごした。王侯のような思い、とでもいえばいいのだろうか・・・
標高が1000メートルを超えるこの美術館は木造のつくりと相まってとてもとても音の響きが良いのだそうだ。
音色に惹かれてか2~3人の方が美術館に入ってて来られた。感動が終わった後の拍手で伝わってきた。『ブラボー!』

2016年5月24日火曜日

メトロポリスに展示

飯田市知久町のカラオケ屋さん「メトロポリス」 http://www7.plala.or.jp/karaokecity/に私の作品5
点展示することになりました。期間は7月20日まで。
オーナーが多彩な方で このロビーはいろいろな個性を主張するものが溢れている。凝りに凝って収集したのだろう ほんとに楽しい空間だ。
そんな壁に私の絵は合うんだろうかと思っていたら なじんでびっくりした。
カラオケ屋さんだから私の絵には触れたことのない方ばかりだろう、期待してしまうな~
飯田のような小さな街でも意外に人の関係はセクション的だ。興味のない世界にいる人々は 違う世界に顔を出すことは以外にないのだ。・・・
私は今回の展示に10年前の作品を1つ出しました。原点回帰の一環です。半円形の『altare』という作品ですが、思いのほか作風が古くなくちょっと安心しました。皆さんはどう感じられるでしょうね・・・
それから、もう一つ、の視点なんですが 現在阿智村治部坂のミュー美術館にも個展を開催中です。たまたま期間が重なってしまったのですが、都会の中にある林正彦作品自然の中にある林正彦作品、どんな感じ方ができるのでしょうか?もしよろしければご感想を聞きたいものです。

2016年5月22日日曜日

新緑の美術館


 なんと気持ちの良い季節なんだろう。
ここのところの晴天に恵まれて、個展はとてもいい雰囲気の中開催となった。
もう、7回目なのか8回目なのかさえ覚えていなくなってしまったのだが、私にとってはとても意味のある美術館だ。
1998年完成以来 静かな自然に抱かれた空間で 何にも代えがたい時間が流れている。が 不思議なくらい客が少ない・・・。
まあ、そこを良しとして 意味があるのだろうが 美しいバックグランドミュージックを聞いていると悲しくもなってしまう。美は悲しいものなんだ、だなんて 誰かいっていたな~。
庭のズミ(桷)が満開であった。リンゴの花のようなかわいい花だ。

2016年5月18日水曜日

ミュー美術館の個展

南無展で経験した現実対応路線による精神的ギャップ(大げさな言い方・・)を 田植えに没頭するすることで 少し自分を取り戻したような気になっている。・・・格好つけた言い方をしてしまったが、要はギリギリした頭をいつもののんびりペースに戻しただけだ。
さて、明後日からは阿智村浪合治部坂高原にあるミュー自然美術館美術館での個展である。ここ2年の作品を展示して自分を見つめ直してみようと思う。
今自分の中に二人の人物の生き方に惹かれるものがある。
先日の南無展に来ていただいた方に「モランディについてどう思いますか?」と問われたのだ。私は、いま挑戦している抽象画の第一歩があのモランディの静物にあるように思っているから 何かあの一言が急にモランディの大事さをを思い出させてくれた気がした。
もう一人は ウルグアイの元大統領ムヒカ氏だ。カネがいつの間にか自分を変質させてしまう。もちろん地球規模でその現象は進行していて 自分はその中にいるのかよくわからない。経済的自立して生きることは幻想なんだろうか?家族を守るには少しはお金を持たねばならないし・・・・。

それから、リーフレットはないが 飯田市内のメトロポリタンというカラオケ屋さんのロビーでの作品展示も23日から7月中まであります。
こちらはやや昔の作品を展示して 原点を思い出そうかな・・客層が今までと違うので自分には勉強になると思う。
最後にもう一点。
今朝 高校の同級のジャズピアニスト美山氏が今朝電話をくれて 金曜日20日のコンサートに作品を展示させていただけることとなった。場所は飯田市上郷の喫茶店ビーバー、7時から。乞うご期待。どんな空間になるんだろう、音楽は 絵にやさしい。

2016年5月7日土曜日

地元ギャラリー 南無の3人展終了

5月の素晴らしい天気に恵まれて 南無の展示が終わった。正直なところへとへとである。
 隠里のような自然豊かな立石のなのに 新緑に包まれて絵に描いたようなのどかさの中にいたのに・・・
この画廊のテーマは「売る」で それについて私は納得ずくで臨んでいたのに なんとも渋ーい現実の痛みを感じた。知人や友人に少々作品を買っていただいて天にも昇る気持ちになったものの いつの間にか自分の心の中に「もっともっと~」と思う心持が生まれ 来る人々の心を一生懸命読んで 読んで あげく夕方には徒労感でゲッソリ疲れてしまったのだ。毎夜 やけ酒気味であった。
そんな中で最終日に訪れた若い家族に私は救われた。小学生くらいの姉妹2人がお母さんと私の絵【マネー経済考】(写真の)を見ながら頭を横にしたりして「こう見ると○○見たい。」「そうね」「ねーちゃん、わたしは△△にみえるよ!」「これは家計を示すグラフのようで ここのとこが食費、でここがお父さんのおこずかい・・」というような楽しい会話を耳にしたのだ。たわいもないがなんて豊かな時間があったことか!
ああお金じゃないよ!絵の良さって!
売ることをテーマにしていても 絵の第一義を見失ってはいけない。そうでないと救いはないよ。

2016年4月27日水曜日

緑が日増しに濃くなっていくなか また・・

たけのこの最盛期なのだろう、毎日食卓に上る。いいですね。自分がイノシシかと思うくらい好きであるから 幸せなもんだ。
年老いた両親が三日と開けずたけのこ狩りに出かけているのである。実は山間の我が家は竹林の浸食に悩ませれているのだ。たけのこをこの時期そのままにして居ようものならもう山には入っていけないほど密植してくる。喰うか喰われるか 文字どおり戦いである。
先週の日曜日は妻も鍬をもって動員されたようだ。幸い私は南無展を直前に控えているので動員は免れた。
その代わり展覧会が終われば、田植えや草刈りに 突猛進せねばなるまい。・・・
そう 展覧会が立て込んできたが 自然を相手に暮らすのはなかなかまじめでないと務まらない。ちょっとした暗い思いをいだきつつ 気持ちを奮い立たせるこのごろだ。2月頃のやる気の出ない日々に比べれば 「充実」と言っていいのかな。(ジュウジツ・・思えば久しく自分に使ってない言葉だな。)
飯田市のメトロポリスというカラオケ屋さんのギャラリーロビーで作品展示を来月末から7月中までしていただけることとなった。客層が私にとって全く未知なのでたのしみだ、違う自分に出会えるような気がして ハードとは思いつつ展示を決めた。たけのこエネルギーでのりこえるぞ。

2016年4月19日火曜日

南無展’16いよいよ!

実は先月あたりからFacebookを始めました。ただ、pcで楽しんでいるので、スマフォのような機動性はなく、気軽に投稿もしていない。
ブログと違ってものすごく会話に近い感じで、シャイな私は若干腰が引けていると思う。
その影響か本家のブログの更新に手がついていなくて反省している。反射的に感じたことを綴るより ちーっと時間をおいて書くブログが気性にあっているのかも・・・
そう、伝えねばならない展覧会二つが近づきその件をアップします。
飯田市立石発 南無展および南無祭。恒例の催し(ライブペインティングやタヒチアンダンスなど)もあり関係者は熱が入ってきたようだ。こうして展覧会を盛り上げていただいていることに感謝、いい結果を残せる展覧会にしたいものだ。いい結果とは・・・シビアな話だが売るということなのである。ここ3年ほど前から画廊オーナーから与えられているテーマなのです。その真剣勝負は避けては通れない真実なのです。…一歩一歩と行くしかありません。
さて、もう一つはミュー自然美術館の個展開催。
5月20日から6月15日まで。南無展の後 田植えをしミューの展示に漕ぎ着ける予定、かなりハードな予定ですが・・・何とかやります!
前のサッカー日本代表の監督オシムさんの言葉に≪ライオンに追われるウサギに足のつるやつはいない。≫というのがあるんです。結構このおじいさんのウンチクは好きなので覚えていますが
真剣勝負は身を育てるんじゃないかと思います。
ダラダラ書いてしまいますが、おじいさん繋がりで 

最近はウルグアイの元大統領もいい味出してるなーと感じ入っています。

2016年3月26日土曜日

木下以知夫を悼む

去る22日朝 カテゴライズしてはいけないだろうが〈彫刻家〉木下以知夫さんが66歳で逝った。私にはとてもインパクトのある人物であったので何か語ってみたいと思った・・・。
が、実はとても謎の人物で知らないことばかりであった。
ここ数年は 彼が参加したいくつかの展覧会が会える機会であった。【物】(素材とも作品とも言い換えることは彼は望まなかった。)はボンベなどの廃物鉄で会場での配置のため(配置という言い方も間違っているが。)のインスタレーションはその【物】と彼という肉体(脳もその内)との出会い場であり重要なポイントであった。その素の関係が現れることがアートであったのか。・・・
わかった風の語り口をしても決して理解できるわけもないが、魅力が私にはあった。どこか甘味さと言っていいのかわからないが好きであった。
東日本大震災の年に一緒だった展覧会では鉄片か木片が床にいっぱい散りばめてあり そしてその裏には すべて南無阿弥陀仏と書いてあった。ーーー
ただ話をし始めると難しくなり 私はいつもめんどくささに退散してしまった。今となっては失礼と無理解を詫びたい気持ちでいっぱいだ。・・・仕方がない。
この閉ざされた地方都市で、伝統や常識の柵と戦い 4人の立派な子供を育て、そしてやりたいことを貫いた生き方に本当に敬意を表します。 若すぎだよ、逝くには!   安らかにお休みください。 合掌

2016年3月22日火曜日

ギャラリー暁 絵を楽しく

この時期の銀座かいわいは知り合いの方々がグループ展を開かれていて毎週出かけないと義理を欠いてしまう思いがする。そうは言ってもカネもないし 社交性もそこそこなので不義理を決め込むしかない。
ということは当然自分の参加するグループ展の案内状もあまり出さなくなって ちと寂しい・・・
さて、暁展が今週は始まりオープニングに参加した。

参加者達が話すことで気になったことがあるので記してみたい。
それは公募展のことだ。「大きな絵を費用をかけて描いて運んで展示にたどり着いても そこでの成果があまり感じられない。それに大きな絵は どこにも飾れない」というのだ。それに対し暁展のような規模のグループ展なら少ない費用で展示ができ 雑用も少ない。公募展のような固定的な人間関係はなく友達もできて 銀座で楽しい時を過ごせる。・・・
どうも、ここ飯田だけでなくほぼ全国的に美術的老害現象注意報が発令されているんだな・・・。
入選制度と賞味期限の切れた権威に 早く多くの人が見切りをつけて 自分の価値観に自信を持ってもらいたい。そこなんだけど。

2016年3月15日火曜日

ピカソ展 あゝ若き頃

名古屋にてピカソ青・桃の時代展が開かれていて 久々に見に行ってきた。月並みだけどやはりピカソはすごい、ため息だ。
よく、半可通の人が 『何事にも基本が大事だ。あのピカソだってデッサンがあるからこそあのような絵が描けるんだ。』というのを聞くが私はそのたびに腹が立つ。確かに彼は幼いころから並外れたデッサン力が身についていた。14歳のデッサンがその早熟ぶりを語っていた。
17~8歳でアカデミアに入学するが そこではもうアカデミックな美術教育に飽き飽きとして 街の中の何かに魅かれ始める。
私はこの辺りの感じが若いころ(美大浪人の時代)やたら共感していた。一所懸命デッサンしてそして何がその先にあるんだろうか?という問いだ。黒田清輝から100年つづく日本の美術教育の末 果たしてどんな美術ヒーローが出たというのだ・・・
私は、若い頃こそ社会に目を向け 自分はどう生きるのかと試行錯誤していくことが大事でそれがアートだと感じていた。だからピカソの18のころの街を放浪する気持ちが解ったし羨ましかった。
私の時代は今よりはまだ社会が隙間だらけだったから ふわーっとしたいい加減な時を過ごすことができたが それでもまともな職に就かないと生きていけないという強迫観念に押しつぶされ ピカソのように(またはその時代のように)奔放には生きられなかった。デカタンの妄想だけだった。
ピカソはその時代の社会の矛盾のようなものを感じ貧しく放浪する人々を描いた。「貧しくても何か光る真実を私は感じることができる」と言っているようだ。まさに恍惚と不安我にありである。ピカソは後にこの青の時代は感傷だけだったと語っているが、しかしアカデミックな技術論の美術ではアートではないと感じて一歩踏み出した若きピカソはすばらしい。その一歩の深い意味を前述の半可通者は解っていないのだ。
そしてピカソはそこから落ちていかず、美術的興味で自身を高みに持っていった。

2016年2月24日水曜日

コンテンポラリー出品者 m君

”現代の創造展コンテンポラリー”投稿の続きですが、一人の作家について書いてみたい。
数年前50人展という展覧会に関わったとき 彼の平面作品に出合った。オレンジ色の抽象画で黒い線がマスクメロンの模様のように入ったクールな作品だった。
コンテンポラリーの参加者を捜していた私は声をかけて参加してもらったのだ。
しかし準備の間は病気になって 弱気な電話をもらったりもした。なかなか難しい出足だった。
 第一回の彼の出品作は 最初見たものとは変化していて ふしぎな人物が登場し 星や雲がちりばめられたインスタレーションであった。私は?な感じであった。
次の年は 病欠・・・。
去年は 復帰し ロビーの中央にある倉庫の上のスペースをすべて使ってのインスタレーションをしてもらった。ブルーに塗られた箱には星が描かれごろごろ置かれていた。 ソファが置かれていて何か部屋を感じさせ 一つの空間なのかなと思った。ギャラリートークを聞いたが理解を超えていたな・・・。
今年のものは 会場で見ていただければ、私が言葉を尽くすよりも明確なので、省きたいが 例の青い箱たちが透明なラップシートでくるまれていた。なんと丸2日間かけて黙々と設置したのだ。
正直言って私には?な作品なのだが 何か彼の素朴でピュアな心が現われだした気がして (生意気な表現で恐縮だが ) 作家が育っていると感じている。 この4年間の確実なあゆみではないだろうか。
そして このように 心の奥底の はだかの魂にちょっとでも触れられるのが アートなんだと思う。
今年も2月27日、28日午後1時半からギャラリートークを開催します。皆様のお出でを待っております。作家の生の声を聴いてください。

2016年2月23日火曜日

現代の創造展、コンテンポラリー


コンテンポラリーの展示は 評判が良くうれしい限りだ。
4年目にしてやっと、この展示が信用されたような気がして、立ち上げに関与した人間としては 一安心といったところだ。
そもそも、この展覧会は数年前から マンネリ化、高齢化、が問題となっていた。また、作家選出についても改善の余地が指摘されていた。
しかし、組織が硬直化してなかなか改善に舵を切っていけなかった。その間会長選出で揉めたり、委員会がぎすぎす波風がたったり、重鎮たちが去って行ったり・・・それでも多くの美術団体やジャンルの集まりのため価値観が違いすぎ 全く深い話し合いになっていかなかったのだ。
仕方なく 私たち有志は、全員を説得して すべて新しい形に進むことをあきらめ、その代り新ジャンルを立ち上げて、そこで今までの手法では呼び込めない若いアーチストの展示を自由にやろうとしたのだ。(保守的な作家の意見の届かないところで)
展示場所も展示室のような閉ざされた空間ではないロビーですることにした、しかも自然光で。(こういった場所を使いたいという洋画家も、日本画家もいなかったので余計にうまく行ったと思う。)
初めの一年 二年は どこまで自由に展示していいのか 自己規制も働いてとても遠慮がち、結果おとなしい空間であったと思う。
若い作家たちも自信がないのかドタキャンさえあった。・・・(事務局のかたには迷惑をかけてしまった。)
しかし、4回目となった今年は 場所にも慣れて 自分たちの表現も自由度を増して堂々とした展覧会場となった。
観覧者の応援も私たちを勇気づけてくれた。毎回アンケートで新鮮さをほめてくれたのだ。うれしかった。それで若い作家たちも育っていったのだと実感している。



2016年2月18日木曜日

第16回現代の創造展

今週の日曜日(21日)から今年の現代の創造展が始まる。
飯伊地区の作家150人が一堂に会する展覧会・・改めて考えると すごいことだと思う。16年も続いているのである。
マンネリだとか、一部の作家に偏りがあるだとか、古いとか いろいろ言われているが 兎にも角にもこんな大きな( いろいろなジャンルの作家がいろいろな次元でかかわっているという意味 )展覧会が続いていることに意義があると思う。
私もここ数年 新しいジャンルコンテンポラリーを 当展覧会にねじ込んで新鮮な空気を送り込もうと関わってきたので 寒い季節のわりに 熱くなっている。
私のスタンスは、旧来の『いいご趣味ですね!』的なゲイジュツ愛好の集いではない 一人一人が美術を手にする(自分で感じる)展覧会にしていきたいというものだ。
先生に倣って言われるように描き展示するのではなく、自分で自分を大事にしながら自分の価値観を育てていく、という場にしていきたいのだ。
だから今は ジャンルとジャンルの間に 表現の可能性を見出そうとしている若者が多い。
油絵だとか 日本画だとか 書道だとかそういった枠で表現方法を考えていると きっと次の可能性は窮屈になって 最後は何も残ってこないだろう。


2016年2月9日火曜日

墓地の大木

推定樹齢250年の椣(しで)の木を伐採しなくてはならなくなった。
我が家を含む4軒の共同墓地に大木が何本も生えていて 除木しないと墓石が不安定になってしまうのだ。
考えれば なかなか頭の痛い問題ではあるけれど 現実はどこか遠い話であった。 
また放っておこうかとも思ったのだが、今回は4軒とも 何とかしようと思いがシンクロしたのでとうとう伐ってもらうことにした。何せ先祖たちが眠る地なので 気を遣うところでもある、 お祓いをしていただき 知人の山仕事の達人に(私の木こり道の師でもある)に伐っていただくことになった。
この方はとても面白い方なので 折々に話していきたい。
 
まず一つ目は登山家(主にロッククライミング)という過去を持っているのだ。・・・高い木の上を臆すことなくチェーンソウをあやつるのはそれゆえか!
下から見上げていた私は なぜか足が震えていた。