2009年12月29日火曜日

風景画を描く


久しぶりに朝日にあたりながら風景画を描いた。何年もこんなことはしたことがなかった。手塚君と冬休み中に描きに行こうと前に(たぶん話の勢いで)決めていたのだ。二十歳のころ彼とウイスキーのビン一本抱えて三浦半島の岬の先にスケッチに行った時のことを思い出しながら 『よし、また行こう!』と合意したのだが 始めてみるとなかなか思うように絵が描けない。だいいちヴュウポイントが定まらない。人目に触れるようなところでは落ち着かないし日陰では寒すぎる。その点手塚君は描き慣れているのか 割と早くに場所を決めたようだ。わたしはなんとなくその近くに陣取った。小一時間ほど山間の風景を水彩で描いた。そして程なく集中力が切れた。なんか散漫なままだ!

手塚君はまだまだやるぞ といったオーラを出しているので わたしは仕方なく散歩に切り替えてしまった。彼は風景画がすきだ、と感心しながら・・・

2009年12月24日木曜日

縄文の人々




縄文の人たちはどんな暮らしをしていたんだろう。土器の模様を見ているとわくわくするような不思議感に包まれる。同時に恐怖感もある。いったい何なんだろうこの引き込まれる感じは・・・
わたしたちの祖先なんだろうけれど異なった世界だ。まず力強いし、自由で奔放、でも軽くない。呪術的な暗さも感じる。
この写真を古新聞の中から見つけた。女性の土偶のほうははじめて見る写真だ。おなかの感じがなんとも魅力的に思う。
またヘアースタイルはとても現代的だ。
私たちの血にこのエネルギーは流れているはずだ、と思いつつ か細くなった生きる力を考えてしまう。

2009年12月19日土曜日

手塚俊尚日本画展開催中


手塚氏の風景画の個展が飯田市上郷のアートハウスで行われている。
"伊那谷の風景Ⅱ”と題されたその展覧会は 規模は小さいがしみじみとした伊那谷の景色が展開していてうつくしい。彼と私は高校時代からの親しい友だ。ともに美術クラブに籍を置いていた。そのころ彼は芥川の言葉として『日常の些事を愛せ』という一節をさかんに話していた。
十代の私にはその二段構え的な考えにどうもなじめなかったが、30年のときを経て彼の絵を見ていてその言葉の持つ奥行きをなんとなく理解したような気がした。身近な風景に詩情があふれている。

2009年12月6日日曜日

Y先生と平山郁夫


右の絵は私の二十歳のころの自画像でY先生の自画像に感化を受けて描いたものだ。その先生の絵はとても深くて 青春の希望に満ちた甘味さと同時に将来に対する不安なのか暗さのあるとても素晴らしい絵だった。やはり二十歳の自画像だ。高校を卒業してからT君と先生の家を訪ねたときその絵を見たのだ。しばらく私たち二人は感動で言葉を失った。Y先生は私たちの高校時代に教わった美術の先生で実に不思議な人だった。無口で物静か 必要な会話は早口でぼそぼそとしゃべる、目を見て話はしない。何かに怒っている様でもあった。美術研究室はいつも僕らがうろうろしていたから、いつも階下の生物研究室に身を寄せていた。先生の絵らしい絵と言えば、研究室の机の上にあった小さなスケッチブックのつつじの花のデッサンぐらいだった。

ただ、Y先生は芸大で平山郁夫と同級生だと言うことは噂でみな知っていた。しかしあの自画像を見て私たちはただならぬ才能を知った。きっと同級の平山郁夫もそのすごさを知ったことだろう。

あのころ先生は47~8歳 平山郁夫は芸大の教授で飛ぶ鳥を落とす勢いだっただろう。今思えば、Y先生の焦燥はなんとなくせん越ながら想像できる。つつじのデッサンだけでなく もっと作品に取り組みたかっただろう。

先日平山郁夫が亡くなった。評価はいろいろだ。激動の60年代から仏教を中心に平和をテーマに描いている。退屈だと思う人もいるかもしれない。しかしアカデミックな生き方としてはこういうものかもしれない。

Y先生は昨年夏故郷の茅野市で個展を開かれた。私はお元気な先生にお会いできたことを喜んだが、

それ以上にうれしかったのは、例の二十歳の自画像を見ることができたことだ。先生は60年も前の作品を大事に額に入れて保存していられるのだ。素晴らしい絵であることは今も同じだ。

2009年11月30日月曜日

個展が終わる



28日土曜日で今回のるたんでの個展が終了しました。
多くの人に見ていただき、また多くの人と出会うことができ、実りの多い一週間でした。みなさんにあらためて感謝いたします。
ありがとうございました。

2009年11月25日水曜日

個展開催


天気にも恵まれ銀座での個展を開催にこぎつけた。ほんとにいろいろな人に支えられていると思う。東京での暮らしがないのでどうしても知り合いが少ない。当然来てくれる人も少ない、と思っていたら赤津さんの紹介できたよと言ってくれる人たち、新耀展の原さんを中心にした人たち、画廊の中島さんが声をかけてくれた人たち、それに遠路上田から来てくれた夢の庭画廊の小沢さんの奥さん、地元から彫刻の木下イチオさん、等等 初日だけで6~70人になった。顔を知らない人が多いのでなんか心細かったけど話しをすると僕の絵を前から知ってるよなんて言ってもらえて一機にハイになってしまった。『絵描きを殺すにゃおだてりゃいいんだ・・』と思わず心に浮かんだ。

2009年11月14日土曜日

いよいよ個展だ


突然携帯が鳴って、でればFM飯田の平栗さんだった。今度の木曜日の彼女の番組に個展の話をしに来てくれと言う内容だった。うれしい話で『いきます!』と即答した。個展やグループ展の折いつも声をかけてくれるやさしい人だ。いろいろな人にほんとに応援していただいていると実感する。


さて、その個展だがもう来週には、絵を積んで出かけなくてはいけない。もうまな板の鯉なんだから、と思いながらもなんかもやもやしている。


東京の銀座で個展をするのは今回で5回目だ。何らかの成果をものにしたいものだが・・・なんか生臭い思いや たわいもない思いが自分の中で交錯してまたまたもやもやしてしまう。個展が終わったら総括しなきゃーな、と思う。平栗さんの番組で大ぼらを吹いてきますかね。そうしたらきっと開き直るとおもうし・・・

2009年11月8日日曜日

秋深し


秋も深まって里山は紅葉がきれいだ。通勤時 朝もやが上がって陽が差し出すころの色のバリエーションには『ヲーッ!』と思わず声がでる。当然だが早朝は寒さも厳しくなってきてストーブをたきだした。今年はとても楽だ。というのは、去年の冬 ちゃんと薪の準備をしていたからだ。薪ストーブは暖かくて においがいいからもう長く使っているが 燃料がいつも悩みの種なのだ。このごろは薪を売ってるところをちらほら見かけるが、ちょっと前はほんとになかった。なかなか灯油を買うように簡単じゃない。

それがしばらく前の冬から雑木林の木を切って薪を確保することを覚えました。大変な作業なんだけど晴れた冬の日に山で働くのは意外と楽しい。呼吸が深くできるっていうのか気持ちいいのだ。木を切ってタガに薪をつめて運ぶ。それをひと夏乾かす。燃料屋に灯油を買いに行くことと比べたらとてもやる気がなくなるような手間のかかりようだ。実際二三年前までそれでストレスになっていた。時間がたまらなくモッタイナイと感じてしまう。

でも冬の陽の中 かさかさ落ち葉を踏んで薪をつくる時間がうれしい??と感じるようになってほんとにぼちぼち(実に仕事量なんてしれてますが・・)やってます。効率優先の頭を切り替えることが難しい。

2009年11月1日日曜日

展覧会の秋



1975年に画家中村正義を中心に東京展が発足し あの日展と隣りあわせでこの時期開催された。それは反権威、自由出品、無審査というものでとても理想に満ちたものだった。が 現実には作家により 整理された展示室だったり3段から5段掛け展示室だったりと不平等部分をさらけ出した。第二回以降は執行部(東京市民会議)の内部分裂、中村の死などで日本の文化の刷新のイメージはトーンダウンしてしまった。反日展反権威の意識は当時浪人で東京展さえ知らない私にもなんとなく伝わっていた。今でも団体展に気が向かないのはそのあたりから来ていると思う。


このごろの民主党の主張を聞いていると、美術の世界もまた、明治以来の中央集権で、優等生たちが美術を啓蒙しリードしようとしていて、それは官僚による政治に似ていると感じてしまう。それが中村の言う日展なのかもしれない。アートはそれぞれの人たちの生きると言うことと同次元のもので、優等生に教えてもらうもんではないだろう。うまく描けていて、うつくしい、でもそれがどうしたの?と思うような絵ばかりの展覧会に行く気にはなれないよ、と東京から遠く離れた田舎でものおもう。

2009年10月25日日曜日

NakamuraBrawn-4


しばらく前に話題になった『送り人』と言う映画をテレビで見た。映画の中で肝になっていた河原で拾う石の話に興味を覚えた。太古の時代、 言葉もさして豊富ではなかっただろう そんな時代自分の気持ちを河原の石に託して伝えるべき人に送る。とてもアートな表現で、本質的だ。
振り返って自分の絵を見ると愕然とした。表現が軽いほうに流れている。つい ちょっとしたキレイサとかおもしろさに気持ちが持っていかれているんだ。なぜ土を使っているのかもう一度立ち位置に立つべきだ。あの話のように石を相手に渡すというもっと深いところでの表現でなくてはいけないんだ。土は絵の具に比べ描写性にも 発色の面にも優れてはいない。しかし、だからこそ描写でも色面構成でもないもう一つ深いところで人の心の何かを表現できるんじゃあないかなと私は考えている。

2009年10月24日土曜日

中村正義と山本弘


東京展の発足のころの画家中村正義について興味があっていろいろを見ている。時々いく飲み屋さんにもたしかディフォルメされた原色の人物画がかけてあったと思う。すごく繊細な風景画から強烈な色彩のお面のような人物画に変わっていく。見続けていられないような毒みがある。ふと、山本弘という画家を思い出した。10年前東京で初めて開催した私の個展に来られたm.m.polo氏(高校の先輩にあたる)からこの画家の存在を知った。飯田出身で地元で活動した(活動という言葉が正しいかわからないが)画家である。中村正義とほぼ同世代かやや若いくらいのいわゆる無頼派画家である。酒と自殺未遂の暮らしのようであった。後に今村由男氏(版画家)と話す機会があり山本画家の話になって『おんぶしたら背中でおしっこされたよ』ときいた。逸話満載の人だったようだ。そんな荒れた暮らしなのに絵が意外とサワヤカ。爽やかという言葉は当たってないかもしれない。ただ毒味が少なく救われるのだ。中村正義の毒みは人の心に浸み込まないところがあるような気がする。反権威の作家の微妙な部分だ。

さて m.m.polo氏が頑張って東京で展覧会を企画しているが地元ではなかなか山本の絵を見る機会は少ない。飯田市美術博物館に大作の所蔵がいくつかあるそうなのでぜひ回顧展をやってもらいたいものだ。m.m.poloさん 手元に山本弘さんの図がないので勝手にリンク張らせてもらいました。すみません。

2009年10月17日土曜日

nakamurabrawn-3


二三日前まで、椋鳩十を鳩椋十と言い間違えたりしていた小五の娘が、夕食のとき“心は感動でできるんだよ”と言った。今日遠足で椋鳩十記念館に行って聞いてきたらしい。むーん思わず唸ってしまった。
  何年も前 散策していてあの赤土を見つけた。少し湿っていたその土はなんとも不思議に赤かった。赤松の幹にも似た赤さだった。土の質感のある画面を模索していたわたしにはこの土を試さずに入られなかった。以来私のメイン素材となったのだ。
その後展覧会を開く度に『中村壁の色ですね』と言われたが、 中村壁は“?”のままだった。そして友人の村澤氏からその壁について調べようの申し出があったのだ。思えばあの散策のときの感動がNakamuraBrawnにつながっていたんだ。・・・・
おいしい!とことさら大きな声で夕ご飯を食べ始めた娘は、心を創るというより体をつくる感じだな、と私は思った。

2009年10月7日水曜日

1975年(二つの原点)


るたん選抜展が今年も開かれるようだ。画廊からの案内状に美術評論家の赤津侃氏の“団体展は「何処から来て何処へ行くのか」”という興味深い文があった。

【75年第一回東京展は新装開館した都美館で日展と隣り合わせて開催された。反権威、反日展、自由出品制、無審査を旗印に、中村正義や針生一郎らを中心とする東京展市民会議が立ち上げた。】

ああなんという時代だったんだろう。私はこの文を読んであの頃のことを思い出していた。3回の芸大受験に失敗し就職をきめた年だった。デッサン重視の受験になんとも出口を見出せなかった。なんかもっと大事な方向があるはずだと頑なに思っていたと思う。芸大の権威と現実に疑問を膨らましていた。かといってどんな絵を描いていいのかもわからなかった。友人と行ったフジテレビギャラリー(曙橋あたりだったか)で、カレルアペルとウェレムデクーニンのフィルムを見てスーっとした気持ちになったのを覚えている。その東京展を見ていれば何か変わっていたかもしれない。

一昨年豊橋市にある“新しい日本画をめざす”星野真吾賞展に出品したが、審査委員長は針生一郎氏であった。その総評で『中村正義氏や星野真吾氏の新しい日本画に対する取り組みに対し、出品作品は総じて問題意識が低い』とのことであった。どう低いのか私には理解できなかったが赤津氏の文に触れてやっとその意味がわかった気がした。それは、私がずーっと抱いている権威に対する不信感や、自分の信じる絵を描くという方向を押さえ込んでしまわなくていいということなのだ。

2009年10月4日日曜日

NAKAMURABRAWN-2


11月23日(月)から28(土)まで東京銀座の画廊るたんで個展を開催する。この夏の無気力精神ではいったいどうなるんだろうと心配していたが、不思議なもので涼しくなると少しずつ気力が出てきて何とかやれそうになってきた。

DMもでき画廊の中島さんと打ち合わせる中でサブタイトルのnakamurabrawnについてもう少し説明をしなくてはいけないのかなと思うに至った。

<NAKAMURABRAWN 林正彦展によせて>  かつて、幻の壁『中村壁』を左官、新聞記者と共に研究しているころ飯田の旧家のお茶室を訪ねた。その茶室は中村壁で 夏の夕方の斜めの光がオレンジ色に乱反射して 室内はボアーッとした時間のない不思議な空間だった。・・・中世美術の極みというのか幽玄のような感覚を覚えた。この中村壁の土にはなんとも不思議な魅力がある。

しかし私は 自己研鑽による中世美術とは異なる方向に この土と共に進もうと思う。なぜなら自己を虚しくしてその技術の頂を目指す中世の美学には 現代に生きる私たちとは相容れないものがあると思うから。私たちは自己を虚しくするのではなく存在するということを確かに感じなくてはいけない。・・・
そんな思いで この中村壁の土を 敢てNAKAMURABRAWNと呼び この土の特性である温かみが自己解放の表現につながらないかと挑戦している。

2009年9月30日水曜日

NAKAMURABRAWN


先日飯田創造館で表装画展があった。久しぶりに見たこの展覧会、かつてのちょっとカビっぽい書画骨董的展示がとても明るくなってアートな感じ、好印象。

さて、その中に中村壁の土を使って額をつくりそこに遺墨が飾られた作品があった。あの独特な色が味わい深く遺墨とマッチしていたと思う。昨年 僕の行きつけの床屋さんが新築に際し玄関の壁を中村壁で仕上げたと言ってくれた。見せていただいたがとてもシックで、うれしかった。こんなふうにあの中村壁が 現代に復権してくれると感慨深い。みすず設計の松下氏もいろいろと再生に取り組んでくれていて心強い。(喫茶店 五反田、瑠璃寺など。) 左官の勝野氏、南信州新聞の村澤氏とともに幻の中村壁を探して研究したあのころのことを懐かしんでしまう。

2009年9月21日月曜日

稲刈り


ここ数年 一年間の絵の制作のペースを 稲の生育にあわせて秋に成果が上がるようにやってきている。すなわち 稲が米になるころ自分の絵も個展を開けるとか何らかのテーマの終結ができるように心がけてきた。しかしどうも今年は苦しい。11月23日からは銀座のるたんで個展を予定している。切羽詰ってきた感じだ。


秋晴れが続いてやっぱり稲刈りシーズンだ。山里のここではどの田んぼでも人々が忙しく でものどかに働いている。すがすがしい気分になってくる自分に気付く。 ロレンツエッテェイの壁画“よき政治と悪しき政治”の中の幸せに働く農民たちのようだ。山間地の農業は問題だらけなのに・・そしてわたしもその風景に中に入って汗を流す。


時間に追いかけられる意識が和らいだのはとても救いだった。

2009年9月12日土曜日

確かなものって・・


TVで大リーグのイチローのはなしを聞いた。この偉大な野球選手は“バッティングで確かなものってないんです。だからフォームは常に変わっていくんだ”というようなことを言っていた。ほんとにそうだなーと改めて思う。自分が大切にしているものは特にデリケートで変わりやすいと思うから。絵について考えると/いいなと思う絵はほんとにいつもいいのだろうか?確かにピカソだから?バスキアだから?でもいいなと思うのはその時の出来事。その絵はそこに同じにあるのに見るたびにビビッと来るんだろうか?・・否何も感じないときだってある。自分の何処かがOFFのときは空間が広がらない。すると、絵が変わるんじゃなくて、自分が変わっているんだ。スルッと自分が変わっているのに気がつかないでいると思う。描くときも 同じような形で同じ問題に立ち向かっても、以前と同じに描けない。“同じ”を意識したりするとトーンダウンすることが多い。形のない大事な“なにか”をとらえるのはほんとに難しい。

2009年9月7日月曜日

秋の入り口


百日紅の花はもうとっくに咲いている。否もう終わりのころだ。稲穂は頭をたれ、早い田んぼはもう稲刈りが始まっている。近くのりんご畑を見れば枝もたわわに実が生っている。驚いたことに手で握れば指が届いてしまうほどの細い幹にグレープフルーツほどの大きさ(もう立派なりんごの大きさをいいたいんだけど)の実が50個以上付いているんだ。なんかかわいそうだよ。・・・どうも私が不機嫌なのは秋になるのを認めたくない一心からだ。わかっている。

でも、朝早く(もうかなり暗くなってしまっているが)外に出てみると とっても気持ちいい風が私を元気づけてくれる。夏の間は何にも頭が回らなかったのに、なんか詩人にでもなったようだ。こんな勇気が出てくれると“それでも秋を受け入れようか”と鷹揚になってくる。やっぱやるしかないのか・・・

あー!いそがしい秋、おいしいものを食べて 立ち向かいますか。

2009年9月1日火曜日

ソマリア



私が、ペルージアにいたころ泰司君という友人がいて毎夜BAR(日本のBARとは違いスターバックスカフェみたいなところで酒も飲めた)に通っていた。さして金が有ったわけでもないので、酒の質も量も知れていたと思う。そこでの彼の親しい友人にソマリア人のアハメッドというのがいた。一般にソマリア人は背が高く手足も長い。気質もやさしくおっとりした感じと思う。その彼はあまり背は高くなかった、といっても、私たちよりやや高かったか。本来回教徒であったと思うが、長い海外の暮らしでアル中のような感じだった。泰司君は『本国ではいいとこの子弟なんだろうになー』と嘆くというわけでもないがいっていた。ある日アハメッドがけんかで怪我をして入院したと聞いて私たちは急いで見舞いに行った。どうもけんかというより巻き添えで突き飛ばされて窓に手をついたらしい。そのガラスが割れて手を怪我したようだ。彼はもつれたような物言いで血がいっぱい出たんだと言った。そして、そばにいた泰司君の横っ腹あたりをさすって肝臓気をつけろとも行った。


それから暫くして かれは長いイタリアの暮らしにピリオドを打って母国に帰っていった。泰司君は『帰ったら軍隊に入るらしいが、きっとやっていけねーだろうな。』というようなことをいっていた。


その後 『もう死んじゃったかもしれないなー』と泰司君が冗談半分にいうのを聞いた。・・・


そしてその泰司君も7年前に肝臓で(アルコールによる)逝ってしまった。二人とも争いごとを好まない
やさしい、寂しがりやの人だった。


ソマリアの惨状のニュースを耳にするたびに、『血がいっぱい出たんだ!』と言ったアハメッドを思い出す。

2009年8月25日火曜日

おもしろさ


ある雑誌にN画伯の日記が載っていた。ゴーギャンについて“よく見ると下手くそ。いったいに日本人の絵は上手だ。上手でツマラナイというのはどういう訳。”・・・

N画伯は確か東京芸大の先生だった人だ。こういう方にそういわれちゃーなー。


なぜなんだろう?私も昔から感じていた疑問だ。アートブリュットやアフリカンアート、児童画なんかにはなんともおもしろいものが有ったりする。では反対につまらないものは何だろう?たとえば売り絵の風景画、美人画。いやいや底の浅い絵はいっぱいある。『絵とはこういうもんだ』とばかりに仕掛けた絵は概してつまらない。一番初っ端のところが、間違えているのに気がついていないと思う。そこのところもっと問うべきなんじゃないかな。日本の美術界は。ちょっと大きく出てしまったかな・・・

自分に目を向けると無意識に絵をまとめていた!ううう つまらぬ!

2009年8月4日火曜日

糊口をしのぐ


糊口をしのぐとは青臭い表現ですが、生活のため製造業に従事して長くなります。明日やめよう明日やめようと思いながら時が流れています。私の我慢も相当なものですが、(きっと)会社の我慢も有ってこの快挙があると思われます。 ・・・絵を売るって本当に難しい。

さて、製造業、寸暇を惜しんで、働くことは言うまでもなくとても大事なことだ。時間内にきめられた数量を作らなくてはいけない。ある意味で手は動かし続けなくてはいけないのだ。だが、絵を描くときはどうだろう。まったく手が動かない時なんて、2~3日はざらにある。頭はそれでも動いてはいる(だぶん)。
いや、それさえ意識的にとめて気分をまっさらにしたいときもある。 手の動く時間は少ない。
この二つの落差はいったい何なんだろう。

また今日も会社に向かう・・・。

8.15に思う

終戦記念日 がくる。このところ思うのは、近代から現代に至る日本の歴史に関しての自分の無知さだ。どうしてあんな無謀な戦争に日本は入っていったんだろう。・・・・近代に人権という意識が生まれてきたが、20世紀はまだあまりに低かった。西欧に対する劣等意識、アジアに対する優越意識。(日本だけでなく差別意識は、世界中の病気であった。)中国に向かう陸軍のイメージはよくないと思うが、多くのひとは、ほんとうに支持したのか?どこかで“おかしい”がいえなかったんだろうか。今の日本も組織優先が強いが、当時は″個″なんて存在し得なかったんだろう。もしかするとそのあたりこそ いまの私たちが大事に考えていかなければならないことなんじゃあないかと思う。組織の中でも自分の価値観をもって、譲ってはいけないときは反対する勇気を持たなくてはいけない。大事だと思う。そして組織に依存しすぎないよう常々生きることも重要と思う。組織もタイトじゃもうもたないだろう。また 組織の中でしか自分の存在を感じられないのは、いかがなものか。・・である。

Miracle at St.Anne を見る


映画館に出かけるなんてほんとに久しぶりだ。一時間あまり前についてしまった。この入れ込みようには我ながら恥ずかしい。Spik Lee監督の作品は好きで時々ビデオを借りてきてみたりするがマニアというわけではない。中部イタリアの第二次大戦終了時が舞台ということでとても見たくなってしまったのだ。ストーリーの圧倒的展開に引き込まれたが戦争というものの残酷さを改めて思った。(今もこの不条理さの中で生きている人々がいるのかと思うと無邪気ではいられない。私の父も戦争に行っていたのだ。)
映画の中の黒人兵士がとてもいい感じに描かれていて それだけに最後は不覚にも鼻の奥がつーんとしてしまった。いい時間をすごせた気がした。
余談だが いくらチョコレートの巨人でもたぶん20kg超のビーナスの頭は重すぎなかっただろうか。

2009年7月26日日曜日

草刈



以前に稲の育ちが早いという話をしたが、雑草もまた然りである。この春からあまりそのあたりに気を使ってこなかったから 大変である。場所によってはもう私の背丈ほどにもなっているのだ。きっと近所迷惑だったんだろう。反省。 さて ビーバーを背負って夕方近くに出陣だ。この小型エンジンつきの草刈機というものはすごい。1メートル50センチほどの棒の先に 草刈歯のついた30センチ位の円盤が回転して草を刈り倒すのだ。ちょっとしたマジンガーである。現場についてエンジンをかける。むー なかなかかからない。中古のこのマジンガー 機嫌を取るのもオペレーターの立派な仕事なのだ。白い煙とともにやっとかかった!高い回転音が嫌でも草刈に集中させてくれる。以外にも重労働である。汗が体中からふきだす。日ごろやりなれてないためすぐにばてるが、まだまだ雑草地は広い。今度は自分の体のご機嫌をとりながら何とか続ける。白い小さな花(ヒメジオンとかいったか?)が微かな甘いにおいを漂わせ私は少し元気になる。続ける。嫌になる。・・結局刈りきることはできなかった。


来週 やるか・・・ドクダミの気付け薬のようなにおいをかぎながら私はマジンガーのエンジンを切る。

2009年7月19日日曜日

仕事部屋の掃除



平面領域展が終わり、足の踏み場もないままになっていた仕事場に何日かぶりに戻った。どこかの本にあった『旅行で自分の部屋を空けた後は部屋に叱られる』という文章を思い出す。


今回の展覧会には約180人ほどの方に来場いただいた。展覧会は忙しかったり気疲れしたりするが、やっぱりうれしい。初めて会う人に、自分の絵についていい印象を話してもらったりすると、なんとも極楽だ。また顔見知りからここが変わったねーとか言ってもらうことも悦に入る。もしかするとこの喜びだけが、展覧会の意味かも知れないと考えてしまう。また グループで発表すると自分の立ち位置が良くも悪くもわかる。少し落ち込んだりもする。会期中のこの気持ちの高揚は 最終日も過ぎ作品を搬出してしまうといよいよ寂しいものとなるのだ。




まずは仕事場に音楽でも流しながら、掃除を始めよう。




ご来場いただいた皆様、ありがとうございました。心のどこかに何かを残せたかな・・・と願います。


2009年7月10日金曜日

?長幼の序???平面領域展始まる


無学を恥じるが この漢字に出くわしたのは初めてだ。二三日前に新聞で見つけた。霧が晴れたら目前に敵がいたようにあれから気分が高ぶっている。昔から 大人の間にある見えない身分制度のようなものでとても畏怖を感じていた。確かにチョウヨウノジョらしき音は聞いたことはあったがこの字を書いてあの序列をさしていたのか!(アドレナリンの分泌がどうも過剰気味かもしれぬ。)
仕事をやっていると、いわゆるできる人がいる また、劣る人もいる。それは紛れもない事実です。そこには確かに長幼の序らしきものはあるでしょうが、ひとつの尺度でものを見ていることをわれわれは知っている。だからその序列が万能だとはおもわない。トラの穴やギルドのような技術集団には確かに有用な制度かもしれないが、現代のような価値観の多様な社会では非常に部分的な秩序であることを知らなくてはならないと思う。私は美術団体などにある長幼の序に疑問を持つ。この多様な世界で多くの人々を包括できるようなひとつの価値は 理論は 美はあるんでしょうか?否、だから一人ひとりがアーティストとして試行錯誤をしていくんだと思う。

素晴らしい作品を発表する人はリスペクトすればいい。自分の中で好きな作家のベストテンがあってもいい。でもグループとして序列があるとすればとても疑問のある集団だと思う。

そんな思いで私は 昨日オープンした平面領域展に意義を持っている。グループ展としてジャンルを超えて刺激し合える空間があると私は自負しているのだ。(やっぱりアドレナリンが過剰か・・・)

2009年7月7日火曜日

アメーバの暮らし


5月に植えた稲がこの一ヶ月ほどで丈は5~60センチになり 株はもう稲刈りころの太さになっている。お手伝い程度の稲作に手を出しているせいか少しばかり目が田んぼに向く。驚くのはこの成長の早さである。この一ヶ月といえば、高温多湿で 人間の私は成長とはまったくかけ離れた不快で 感情の抑制が効かないなんとも情けない日々であった。 不思議だ!こんな日々が植物にとっては何にも代えがたい待ちわびた季節なんだから。そして私たちはその実を食べ生きる。

梅雨の季節を少し考えてみた。べとべとな気候は確かにあまり知的生活には適さないかもしれない。しかし なんか動物的、いやもっと下等なアメーバ的に生きるという感じに私たちのどこかの感性がシンクロしないだろうか??
単純にいきぬくというところかなー。
知的に、もしくは機能的に暮らせなくたって 情けないなんて感じなくてもいいんだ。きっと・・


話変わりますが、懐かしい人たちがこのブログ見て メッセージをくれました。とてもうれしいし、手紙と違った新しい感覚を受けました。ありがとう。

2009年6月26日金曜日

第7回新耀展



28日(日)から7月4日(土)まで東京有楽町駅前の交通会館二階ギャラリーにて


 “個性の尊重・精神性の高い 自由な創造性を目指す集団 新耀展” 


が開催され 私も参加します。この時期はなかなか会場に顔を出せないので他の作家の方と交流ができず残念です。このブログが役に立たないか現在模索中です。


私は(一般論として)団体展をなんとなく見に行くのが苦手で 都美館も新都美館もあまり行ってません。理由は・・・あまりはっきりしないのですが、作品数が多すぎ テーマや主張に翻弄されて疲れてしまうから。まあ私の鑑賞許容ビットが少ないからでしょう。ですから当然ながら団体展に属さずに今日まで来ています。マイペースな創作活動といえば聞こえがいいですが、刺激がなさ過ぎるかな と考え何年か前、原さん 戸谷さんにお願いして参加させてもらいました。嗚呼にもかかわらず、会場に出向かないのはいかがなものか・・・ けっしてモランディ(彼は故郷ボローニャから一歩も出なかったという。)をきどって出不精を決め込んでいるわけではありません。

2009年6月19日金曜日

コンテンポラリーにこだわる


ゴッホやゴーギャンの後 アートの力の偉大さをどう乗り越えていけるんだろう・・・二十歳のころから考えていることだ。単純に思ったのは、太宰や長谷川、モディリアニのように同じ方向に向かうことの畏怖だった。道端に咲く花は美しいが、どん詰まりの道のような気がした。そんな時見たラウシェンバーグはとても世界を広げてくれた気がした。何か違った角度からアートを攻めていけそうに思ったのだ。それに何より開放感がたまらなかった。まあそんな理由からコンテンポラリーの思いににつながっているのですが、はたして その開放は今も生きているのだろうか・・・

2009年6月10日水曜日

モチベーション


梅雨のシーズンのためか気持ちが滅入る日々が続く。前のページで“かっこよく生きる”なんて書いたもんだから余計に何もできなくなってしまった。つくづく情けない。


絵を描いていると、躁状態と鬱状態が刻一刻入れ替わるのが自分でもよくわかる。一タッチで自分はピカソを超えた!天才だ!と思ったり(残念だが本当に思う) 無能で生きる価値もない!と絶望したりもする。天才だと思った後は大概よくない。たぶん第三者の目には「なにに狂喜しているの?」と思えるところにこだわり、固守して次に踏み込んでいけない。守ろうとする気持ちが自分を支配してしまうんだ。それは絶対にかっこいい生き方ではない・・・なんて自分なんだ!としばらく落ち込んだ後マイナスエネルギーがどうにでもなれとやぶれかぶれで筆を動かす。すると案外いい流れになったり・・・嗚呼 自分の気持ちはつかめない。

2009年6月4日木曜日

平面領域展


7月11日から18日まで長野県飯田創造館にて“平面領域展”を開催いたします。参加者は佐々木敏彦氏(漆芸)、原隆夫氏(ミクストメデェア)、甕恵美氏(書)、桐生好氏(ミクストメディア)と私の5名です。飯田、下伊那の地にすみ さまざまなメディアをとうしコンテンポラリーな表現を模索する作家の近作を展示します。私はコンテンポラリーというところに注目したいと思っています。いまをここでいきると言うコンテンポラリーのテーマをもう一度頭に浮かべてみましょう。そしてコンテンポラリーはかっこよくいきる

を問うています。単にかっこいい絵を描いているかではなく、かっこよくいきているか? すなわち自分に自信を待って堂々と生きているかが問われているのです。すべての面で・・・うーん辛いところだ!問題がありすぎる! しかしその問いに立ち向かう態度が大事でその反映が作品だと思うのです。

大風呂敷を広げすぎたかもしれないが、テーマを公開して展覧会を見ていただきたいと思いました。

2009年5月30日土曜日

中村壁の本



南信州新聞社の村澤氏 とうとう中村壁の本を出しました!数年前のちょうど今頃 元左官の勝野氏と三人で幻の“中村壁”を探して飯田中を探したあの面白い旅(?)の本が。私的アートの暮らしが地域の文化と知らないうちに結びついていたという不思議でうれしい体験でした。それを 企画し興味深い新聞記事にしていただいた村澤氏のセンスに心より感謝の気持ちを表したいと思います。
タイトル:中村壁と遺墨たち 著者:村澤聡 南信州新聞社出版局発行
定価:¥1200-

2009年5月26日火曜日

抽象画って何?


このごろ高校生に“抽象画って何?”と問われた。なかなか難問だ。ここに掲げた“友”と題する私の絵は いわゆる抽象画です。しかしスタートは 散歩のページで書いたように町の壁に感動して始動しているのです。土の持つ落ち着いた風合いや色調を何とか再現したいと思っていました。その点では 具象画と構造は同じだと思う。たとえば 風景に感動してそれを再現しようとする風景画のように。

そして柔らかな土の色が出てきたころ 古い友と久しぶりに会ったときのような優しい気持ちが 絵にシンクロしてきました。そしてこの絵の方向ができたのですが・・・この気持ちが 果たしてみる側の人にどのように伝わるのかよくわからない。ただ、落ち着いたやさしい心のようなものを感じて何かイメージを喚起してもらえば 私としては この抽象画はひとつの価値を持ちえたと思うのです。

2009年5月21日木曜日

散歩をする


ここ何年か散歩を心がけているが、なかなか面倒臭くなって、続かない。野球のイチロウのように意識を高く保てる人がうらやましい。といって、昔の文学者のように堕落を極める覚悟もない。しかたがないので、音楽を聴きながら歩いたり カメラを持ち出したりして、どうにかやっている。歩き始めれば肩こりがなくなったり 足の運びがよくなったりと気持ちがいい。街角には面白いものが意外とあるんだ。土壁は、いまさらながら面白い。そんなときのワンショットをパソコンで遊ぶのもこのごろの散歩継続の方法である。

2009年5月20日水曜日

祖母の似顔絵


この写真は 二年前、母方の祖母が百歳になった記念として描いた似顔絵です。何日か祖母の家に通って十数枚ほど描きました。なかなかふだん話す折がないのに そのときはゆったりとした時間が流れ 昔の話をあれこれと聞くことができました。

そういえば、私がすべてに挫折していた二十歳のころ、祖父の肖像画を描いてなぜか心が和んだのを思い出します。

その祖母が 過日百二歳で天寿を全ういたしました。冥福を祈るばかりです。 

2009年5月17日日曜日

住宅展示場にNakamuraBrawn




知人のご好意で住宅展示場の壁に作品を展示することができました。その住宅は、壁にブロックが使われていてどっしりとした感じの空間です。NakamuraBrawnが映えるんじゃあないかと、大作数点を(<虫食い月><いにしえ人><ナカムラブラウン>など)運び込みました。ぜひ多くの皆さんに見ていただきたいと思います。

場所;飯田市上郷別府 ERMクリエイトモデルハウス展示場

有限会社 ERMクリエイトhttp://erm.seesaa.net/

期間は09年5月から一年間 毎週金曜日から月曜日まで 午前10時から午後5時までオープンしています。素敵な家ですから気軽にお立ち寄りください。

2009年4月30日木曜日

NakamuraBrawnとは?


 土の持つイメージの喚起力というものは、とても不思議で
見ていると 思わず触りたくなってしまう。そしてそれで何かしたくなってしまう。
 私の 地元長野県飯田市には、<中村壁>とよばれる土壁がある。赤みの強い土を使った土壁で、主に内壁として作られた。その赤土の採れる場所に何気なく行ったときは 赤さの程にとても驚いた。
それが、私の素材としての“あかつち”との出会いであった。 以後ずーっとその赤土を使って作品を作ってきたが、発表の折 中村壁の色のようですね、と時々言われた。
しかしそのころまだ私は <中村壁>についてよく知らなかった。
中村壁は、およそ5~60年ほど前までは、飯田のお座敷、茶室などの内壁によく使われていたが、建築工法の変化とともに、次第に姿を消していった。その幻とも言うべき中村壁については、左官の勝野氏、南信州新聞社の村澤氏とともに3年ほど前、研究することが出来き、多くの人に反響を頂いた。風土の中にある美意識に共鳴できたことは 現代美術に携わるものとして、とても嬉しいことであった。
私は この赤土の持つ柔らかで、豊かで、少し華やかな感じを、Nakamura Brawn と呼ぶことにした。
そして、この素材とかかわりながら、次の創造のページを進めていきたい。